2014年8月19日火曜日

おはようさん 2014.8.18.

夏休み明け、今年の後半戦の開始です! ♪年の初めのためしとて♪じゃないですが、 老化の腎虚を予防するために、今日からまた歩き始めました。 医院までの往復、お散歩通勤です。 時間にして片道1時間半。 しばらく歩いていなかったので、今日は最盛期よりも10分ほど遅れました。 火曜日はバイクde往診が、木曜日は蓮風先生の漢祥院へ車で行くので、歩けるのは週に1,2回ですが、それでも「塵も積もれば山となる」 がんばって体重オーバーを是正しないと、秋の謡いの発表会での正座でレッドカードくらっちゃいますからね。 やっぱり何かイベントとか目的があると、がんばるんばっ☆彡 になれますね。 最近、大阪と神戸のマラソンに出るとがんばってるお友だちができました。 毎日のFBでこれだけ走った!というのを見てると、うん、自分もがんばらなくちゃ!って思います。 これは善の循環。 世の中、こうやって善きこと、楽しきこと、うれしきこと、 それをまとめて「愛」とか「和」って言うんだけど、そういう愛であり和がどんどん循環していったら、この世は生まれ変われるのにね。 (以下、長文がを書いたけど・・・読み返してみて・・削除しましたので、今日はここまで) 前世物語  先生はワークが終わった後で、このように話しかけてきてくれました。 「先生の言っていることは何となくわかるわ。極く稀には善意に満たされた人生を初めから歩む人もいるでしょうが、ほとんどは悪意からスタートしたり、途中で悪意に落ち込んでも、頑張って最後には善意でゴールできた人がほとんどのはずですよね。悪意が悪魔の誘惑だとすれば、心を狂わせる煩悩の誘惑を振り切って善意に辿り着けた人たちなのですから、その人生は充実感に溢れた素晴らしいものだった、と感じることでしょうね。ただ、これでは悪意と善意という二元性の中を生きただけなのでしょう。  そうではなくって、先生が言っている悪意が現れない心とは、悪意と善意という二元性を統合した境地のことなのでしょう。それがどんな境地なのかはさっぱりわからないけど、そんな境地があることは直感的にわかるわ。そんな境地になれば、誰だってもう心が病んだりはしないわよね」 「その通りだよ、さすが美子さん。もう哲学の講義が出来そうだね。悪意を捨てなさい、とよく言うけれど、悪意は善意の対極にあるものであって、悪意を捨てるには善意も捨てなければならなくなるよね。これって今の世の中のことじゃないかな? 今の世の中が進化したということではないよ。むしろ逆だよね。悪意と善意は哲学的な知恵がなければ生じないものなんだ。だから人間の世界は二元性で、動植物の世界は一元性なんだね。すると最近の世の中は・・・一元性に逆行していると言うことになるのかな? そう、本能のままの世界にね。  でもね、神さまがこの本能のままの世界を今、私たちに見せてくれているのは、この一元性の世界を参考にして、悪意と善意の二元性を統合した新しいフィロソフィーを創り出しなさい、と言われているように私には感じられるんだ。それは悪意が現れない人生なんだね」 「善意に満ちた人生はとても素晴らしい人生だと思います。そんな善意に満ちた人生を送っている時、まるで晴天の湖面に広がる細波さざなみに揺れるように、心はキラキラと美しく輝いていますよね。そして悪意が現れない人生には、鏡のように静まり返った湖面に映る満月のような冴えた美しさがあるような気がします」  私は瞑想するようにイメージを浮かべていました。 「そうだね、すてきなイメージだね。善意がキラキラ光っている湖面は美しいけれど、ゲシュタルト的に湖を主体にしてみると、湖面は風で波立っているだけで、たまたま晴天で光が射し込んでいただけなんだよ。ここでは悪意を雷雨だとすれば、湖面を眺めている人にとっては美と恐怖の両極端になってしまうけど、湖にとっては晴天か雷雨かの差であって、波立っていることには変わりないのだね。つまり、湖にとっては善意も悪意も同じだということになってしまうんだ」 「すると悪意が現れない人生とは鏡のような湖面なのだから、湖からみれば晴天の光が揺れる美と鏡の月明かりの美とは違うものなのですね。その差とは実際にはどんな感じなのでしょうか?」  私は瞑想したまま尋ねました。 「悪意は誰でも得意だから説明は要らないよね。善意の時の心の揺れとは、例えば共同募金にお金を入れて赤い羽根を付けてもらった時の心の揺れかな。ホラ、ちょっと心がくすぐったかったりするだろう。バスや電車の中ではちょっと胸を張っていたりしてね。あれが心の細波なんだよ。良いことをしたのだから胸の辺りが輝いているよね、キラキラと・・・。善意って実際はそういうことが多いのではないかなぁ」