2014年8月13日水曜日

おはようさん 2014.8.13.

僕の夏休み 第二日目 今日こそ 歩くぞ! そして木陰で読書バカンスや! とカメラと本をリュックに入れて、バイクで万博公園へ。 途中、自然酵母のパン屋さんに寄り道して、お昼をGETするはずが・・・お盆でお休み・・・さもありなん。。。 気を取り直して、途中でガソリンを入れて、万博公園へ。 さすがに開園の10時ちょっと前だから、バイク駐車場もガラガラやわ。 メットと上着をバイクにしまって、さぁ 出発!しかけたら、向こうから来たおじさんが「今日は水曜日やから休園やでぇ。夜のイルミナイトはやってるらしいけど・・・」と教えてくれました。 うううっ(>_<) もう一度、気を取り直して・・・だったら花博公園があるさ!と帰り道に フッと思いました。 二度もダメ出しをくらったのには何か理由がある。。。 ここで花博公園のお散歩カメラを強行すれば、明智光秀になるんじゃないの? そのまま自宅へ戻って、午後からベランダ菜園の夏仕事を片づけました。 もちろん 何も起こりませんでした。 じゃぁ あの予感というのか、二度のダメ出しは意味なしだったのかと言うと・・・ここからスピリチュアルな考え方を・・・ あの時、ダメ出しを無視して花博公園に向かっていれば、きっと何か大変なことが起こっていたでしょう。(実際にプライベートなことですが、気になる事案があります) あの時、行かずに予感に従ったから、その大変なことは起こらずに(先延ばしに)なったのでしょう。 そんなもんかいな? はい、そんなもんです。これも宇宙の理のひとつ。 えらい脳天気やなぁ? はい、脳天気でございます。 さて、ベランダ菜園では、いっぱい実をつけてくれたミニトマトさんたちを片づけました。 例年、一気に真っ赤に熟してしまって、とても食べきれなくなってしまうのですが、今年はちょうど一日分が次々と熟してくれて、長い間、いただくことができました。 先日、大収穫祭をしたブドウさんたちにお礼肥をあげて、まだがんばってくれている胡瓜と苦瓜さんたちに追肥をあげて・・・ ベランダ菜園のみんなに水やりしながら、思いました。 ベランダ菜園は4月にトマト・胡瓜・苦瓜などの苗を植えつけてからは、毎晩、帰宅後に水やりをしています。 疲れていても、遅くなっても、毎晩&毎晩 水やりします。 辛くないの? って聞かれることもあるけど・・・結構 辛いかも。 でも、心身共に疲れて帰って来てからの水やりは、物言わぬ生きものたちとの対話の時間でもあります。 仕事のことも、今日のいろいろなことも忘れて、ただ呆然と水やりしている自分が居ます。 ある意味、無の境地でもあるのです。 4月から9月まで ちょうど陽気が勝る時期です。 水やりは夜 陰が盛り返してくる頃に、静かに呆然と作務していると、昼間、昇った陽気を祓うことができます。 理にかなっているからでしょう。私はこの夏夜の水やりが実は苦になっていません。 (苦になっていたら、とっととやめていたでしょう) 千日回向するお坊さんも、実は修行は苦になっていないんじゃないかな。 凡人が傍から見てると、とても厳しく辛そうやけど・・・ 水やりの最中、フッと妖精さんの気配や植物さんたちの声を感じることがあります。 行き詰まっていたことに「そうや!」とアイデアが降ってくることもあります。 こころを無にすると、さまざまな善きこと&楽しきこと&面白きことが起こることを知ってしまうと、もう修行も難行苦行も苦になりません。 千日回向で山々を歩き回わりながら、仏さまや観音さまたちと話したり、教えを授かったりしているんじゃないかな。 だから、全然、苦にならない。 千日で終わり・・・いやだ! もっと歩いていたい!って思うんじゃないかな。 今年の胡瓜さんもブドウさんも、おすそわけした方々に、とっても喜んでいただけました。 実のところ、あまり喜んでいただけない or スルーされてしまう人たちばかりに長い間、囲まれていたので、今年はとっても喜んでニコニコ顔なのです、私もベランダの植物さんたちも。 こころ素直な人たち、こころ美しい人たち、楽しく&面白く人生を生きている人たちとの出会いが急に増えてきました。 みなさん、それなりに苦労をされてきているのが感じとれますが、ともかく「今」の笑顔がとってもステキな人たちばかりです。 そこには「人生は修行だ! 学びだ!」も、輪廻転生もカルマも・・・ありません。 和・輪・笑の光で繋がっている実感があるだけです。 それで十分! それだけでよいのです。 あげても、もらっても、ありがとう&うれしいなぁ しても、されても、ありがとう&たすかるわぁ ほら、胡瓜さんも苦瓜さんもブドウさんも薔薇さんも、み~んな、ありがとう でつながっているでしょう。 水をあげて、ありがとう。 実をつけてくれて、ありがとう。 これが天地自然の理、宇宙の真理です。 古い世界の人たちは、ありがとうなしに奪い取ることだけを、もっと収穫することだけに走っていました。 そんな古い世界がどんどん縮退逆行していく時の中で、こうやって光の人たちが出会い、繋がっていくことに、とても大切な使命を感じています。 光の人はひとりひとり異なった能力を持っています。 だから光の人たちは集まれば集まるほど、大きな力を発揮できるようになります。 宗教のように教祖は要りません。 光の人たちの誰もが、大いなる光さんと繋がっているからです。 大いなる光の知恵を自分なりの造形で受け取っていますが、それは目の色、肌の色くらいの違いでしかなく、元の大いなる光の知恵は揺らぎようがないので、誰もが互いに認め合い、許し合って、信じ合えています。 教祖はいないけど、ひとりひとりの働き所はわきまえています。 そして、みんなの力で、光の世界は日々、輝きを増していくのです。 今日はベランダでゆっくりと水やりしながら、そんなことを思いました。 前世物語  この症例は私のセレクションです。この一見、特記すべきことがないように思われるワークの中で、私がとても心を揺さぶられたシーンがあったからです。それはエリックが死んだ後、自分の亡骸を見てこう言ったシーンです。 「あぁ、一生懸命生きた人だなぁ」  私は彼女にとてもピュアーな嫉妬を感じました。それは学生時代に先輩が好記録で優勝した時に感じたような祝福の中に潜むジェラシーです。次は私の番。私にだって手が届くわ、でも・・・という青いエネルギーに満ちたパッションなのでしょう。  貴族とまではいきませんが、このエリックに似た人生を送ることはとても多いのではないかと思います。私の人生も似ているように思いますから。だからこの症例を見る度に、なんだか私まで励まされているように感じるのかもしれません。 「確かに美子さんの言うとおりだよ。死んだ時、自分の亡骸を見て、『一生懸命生きてきたね。ごくろうさまでした。そして、ありがとう』と言いながら自分の亡骸をしっかりと抱きしめてみたいものだね。 それは生への執着なんかではなく、生への深い感謝の気持ちだからね。死んですぐに、今、生きてきた人生に向かって感謝すること、その人生を乗り切ってきてくれた亡骸に手を合わせることが出来たら、その人生はとても輝いた人生となって魂の中にいつまでも残ることだろうね。そう、まるで錦織の金糸のようにね」  先生のワークの中では、過去生の人生を終えて肉体を離れた時に、必ず亡骸を見ていただきます。それまで死ぬのが恐かった方、死ぬのが不安でいっぱいだった方にとって、この過程はとても大切です。前にも述べたように、不安症の根源とは『死への不安』だからです。この過程を体験することで、死への不安が和らぐことが多いのです。そしてほとんどの方々は静かに冷ややかに亡骸を見おろします。魂に帰るとこんなにも冷静なのかしら・・・と考えてしまうほどです。このエリックの様な感想は稀なのです。一生懸命生きてきたからこそ、生きている最中に魂もしっかりと目覚めていたのかもしれません。魂が目覚めたまま肉体の死を通り過ぎたので、魂は素直に肉体を慈しむことが出来たのでしょう。  エリックの場合は辛い試練によって彼女の魂が目覚めたから、一生懸命生きることが出来たのかもしれません。そして一生懸命生きていたから、魂も更に目覚めていったのかもしれません。しかし、夫と息子の死という試練を気づきに変えていったのは彼女自身だったのです。ここに彼女の人生の大きな分岐点があったのです。彼女にはとても辛い試練が二度もやって来たのです。彼女はそれを見事に乗り越えました。 「あぁ、一生懸命生きた人だなぁ」  この一言に私は、エリックの魂の大きな自信を伺い知ることが出来ました。そんな魂だからこそ、『今は辛いと思うけど、その先にはいいことがいっぱいあるから頑張って乗り越えて行ってね』と言えるのです。そして、今の辛さを乗り越える力は誰にでもあるのです。そうです、『大丈夫ですよ』なのです。