2014年4月30日水曜日

おはようさん 2014.4.30.

今日で4月も終わりです。 みなさんも春を楽しみましたか? 寒かった冬をじっと耐えてきた花々が見事に咲く姿に、新しい元気をもらいました。 新入生の初々しい姿に、新しいヤル気をもらいました。 お日さまがどんどん早起きになって、眩しく輝いている姿に、新しい生命の輝きをもらいました。 4月はスタートの季節です。 みなさんは何を始めましたか? 4月に何かを始めれば、年末12月に貧乏暇なし&パートナーなしのぼっち飯でも、な~んとなく良い年やったなぁって自己満足できます。 例え、それが続いていなくてもね、何かを始めたというエネルギーはちゃんと良き思い出として今年を彩ってくれますからね。 明日から5月やん、もう間に合わへんやん? いえいえ、大丈夫ですよ。 そういう方は旧暦換算にすればええだけです。 旧暦では今日は4月2日! ほら まだ26日もあるじゃないの(*^^)v 語学を始めていい。習い事に通い始めてもいい。資格にチャレンジしてもいい。 ライフスタイルを変えてみてもいいよね。 簡単なところでは、早起きさん。 歳を取ったら月日の移りゆくのが早い、と言います。 それはね、歳を取ると、新しい何かを始めるのをやめてしまうからです。 時間の流れ、月日の移ろいの早さは、その充実度で感じ方がコロッと変わってきます。 何かを始める、四苦八苦する、がんばる、うれしい、悔しい、工夫する、考える&考える・・・ 充実した時間、月日を過ごしていると、あっという間に時が流れていきます。 でも、その時の中にはものすごく濃厚な自分の生きざまが映り込んでいます。 まさしく色即是空 空即是色 です。 何もしないまま過ぎ去っていった時の中には・・・何もありません。無です。 わたしは誰? なぜ生きてるの? です。 生きがいを創りたいのなら、何かを始めましょう。 自分らしく生きたいのなら、何かを始めましょう。 魂を輝かせたいのなら・・・ほら、手の届くところに始めるべき何かが転がっているはずですよ。 前世物語  ただ極く稀に完全に知恵を否定しているにもかかわらず、心が大きく開かれている人が現れることがあるんだ。知恵の微塵もないから善悪、喜怒哀楽の感情さえないだろう。あるのはエネルギーゲーム、すなわち強いものが勝つというゲームの中で味わえる自己存在の確認、在るという実感だけなんだ。  厳密に言えば、光のもとへと帰るのに必要なのは心が開かれることであって、知恵の有無は関係しないんだ。だから、知恵を否定した心開かれし者はすんなりと光の中心へと入ることが出来るんだ。光の中心へコンタクト出来れば、全知全能の神さまの化身となることだって容易だよ。するとどうなると思う? 神さまがエネルギーゲームを始めるんだ。全知全能のエネルギーを使ってね。神々の黄昏・・・の再演だね。  でも心配ないよ。そんな人はめったに出て来やしないからね。そもそも普通に生活している人がそうなったら精神的にはかなり不安定な状態が持続するから、自分の心が大きく開かれていることを自覚する機会はそれほどないはずだよ。だから、自分に備わっている力の使いようはとてもわからないだろう。それにかなり心がクールでないと、コンタクトした神さまを自分のエネルギーゲームに引き入れられないからね。  神さまの技を使い切るには、心が鏡のように静かであることが必要なんだ。波ひとつない湖は月と星々を美しく幻想的に映しだすだろう。神さまのも同じだよ。心に乱れがあると、つまり波紋ひとつでさえ神さまの技に乱れを生じさせてしまうんだ。神さまに近いほど、神さまからのより大きなエネルギーを自分の心に受けとめることになるんだ。心が無限に広く、しかも静かに開かれていれば、神さまの技を思う存分使いこなすことが出来るだろう。しかし心に乱れが生じると心の中で神さまのエネルギーが乱反射して、たちどころに己を焼き滅ぼしてしまうだろうね。だから・・・」  膝のカップがプルプルと震えています。先生はカップのふちを撫でながら言いました。 「まぁ、心配しないでいいんだよ。二元性のこの世の中ではそんな偉人は現れないからね、たぶん・・・」  先生はイスを蹴って私の正面に戻ると魔法を解いてくれました。 「じゃあ、やっぱり過去生の能力や才能は持って帰りにくいのですか?」  私はカップに気を取られていて、実は話がよくわかっていませんでした。 「さっきのは神さまの技についての話だったんだよ。普通はそこまでの才能や能力は求めていないだろう。神さまにお願いする時でも、神さまの力を貸してください、とは言うけど、神さまの力をそのままください、とは言わないよね。そこまで言うと何となく危ない気がするだろう。それこそバチが当たるってね。先程の話はそのバチの話だね。  普通の人が求めている最高の才能や能力とは、心がそれほど開かれていない、心の迷いがいっぱいある中での『神の技に近いもの』なんだよ。もちろん限りなく神の技に近いものを求めているのだけど、悲しいかな、似ているけど似ていないもののレベルなんだよ。  作家にしても画家にしても音楽家にしても、彼らは人生のどこかで必ず光に照らされ神さまに触れているんだ。本人にその自覚がなければ、絵が得意、音楽が得意というだけで終わってしまうけれど、その自覚があれば心の中に光や神さまの残像が焼き付いてしまうのだね。すると、それを如何に具現化するかということが彼らの残りの人生のテーマとなってしまうんだ。光や神さまに触れる度にスランプに陥るのは、前より光や神さまがはっきりと見えるようになったからなんだよ。今までの作品ではまるでダメだ・・・となってしまうんだね。そして急に作風がガラリと変わってしまうことだってあるよね。 歴史に名を残した芸術家は、心が開いて眩しい光をしっかりと見据えることが出来た人だったのだろうね。彼らも初めは瞬間的なコンタクトしか出来なかったけれど、光を求め続け、美と愛を描き続けているうちにコンタクトも断続的になっていったのだろう。彼らの才能や能力がピークを迎えた時、彼らの心の光の残像はきっと生きている残像になっていたと思うよ。それはまるで神さまが乗り移ったように創られたことだろう。その芸術家の最高の心の目を通して見た光の姿なのだから・・・」  先生は今、私の肉体を介して魂の美を見つめている・・・フッとそう感じました。すると不思議に身体全体がとてもリラックスしていくのがわかりました。