2014年3月31日月曜日

おはようさん 2014.3.30.

今日は能楽師 深野師匠・宮本先生・鷲尾先生のお教室の合同発表会でした。 (正式名は 春興会) 私は「大仏供養」の謡いで、シテ方 平家の悪七兵衛景清をさせていただきました。 謡いを始めて、まだ1年とちょっと。 そう小学2年生のような、ちょっぴりお兄さんでうれしくて、まだまだ初々しくて何をやっても楽しくて、怖いものしらず・・・です。 夏休みのある小学生に戻りたい・・・これはすべての働く大人(主婦も含めて)の願望でしょう。 夏休みは戻らないけど、小学生のようなウキウキ&ドキドキ 目がキラキラにはいつだって戻ることができます。 明後日は4月。何か新しい趣味を始めてみるのに最適な時期です。 そう、どんな趣味でもいいから(ただし、仕事がらみはダメですよ)何かを始めたら・・・1年続ければ3年若返ります。3年続ければ10年若返って・・・10年続けると、もう歳を取らなくなりますよ。 長続きしないからなぁ・・・な人も、まずやってみましょう。 私もこれまでの経験上、どの趣味も3年はハイテンションにのめり込みます。 まるでマラソンなのに20km地点まで先頭集団のトップを走っているようです。 3年過ぎたら、20Km過ぎて足が止まれば、そこでリタイアも良しと思ってやり始めます。 するとね、気が楽ですよ。 あきっぽいとか、長続きしないとか・・・言いたい人たちには言わせておけばいいのです。どうせ陰口叩く人たちは、何もしない&何もできない人たちなのですからね。そんな人たちと同じ波動に居ると、せっかくの人生が錆びついてしまいますよ。くわばら&くわばら。 能楽 謡いの世界の魅力は、創造性をかき立てられることです。 場面場面の情景をフルに脳内イメージしなくちゃ楽しめません。 奈良の若草山の辺りに着いたよって言われると、脳内イメージでは若草山が見えてなきゃぁね。 年老いた母との別れに振り向き振り向き立ち去る景清の姿と同時に、息子の身を案じる母のこころがオーバーラップして感じられないと・・・泣けません。 400年の間、日本人はこの繊細な感性を磨いてきました。 だから、心地よい涙を流すことができました。 感動、哀愁、惜別・・・目に見えなくても、耳に聞こえなくても、肌に触れなくても、日本人は五感を越えた感性でこころを震わすことができました。 そんな素晴らしい感性がここ数年で特に急速に縮退してきたことにとても危惧しています。 愛のない世界は嫌です。 だから、神さま・光さんは能楽へと導いたのかしら・・・いろんな生徒さんたちの謡いや仕舞を見ていて、そんなことを思いました。 前世物語  先生は私のレポートを握りしめたまま部屋の隅に目を移しました。ゆらゆらとサンダルウッドのお香が煙っています。先生は微笑みながら、じっとヴェーダの踊りを見つめました。 「まるで料理の鉄人ですね」  私はつい、言ってしまいました。先生は無言です。こんな時、先生は私の恩師と同じなのです。何を言っても答えてくれません。ちゃんと聞こえてはいます。後で思い出したように答えてくれますから。肉体と精神の基本的維持機能ヴァイタルサインだけ残して、あとはスイッチをオフにして、先生の魂は光と戯れ、風にそよぎ、香りに溶けて、どこかへ出かけているのです。 「また心の逍遥をしてしまいました」  懐かしい私のピタゴラス先生の言葉です。 「人間は何のために生きているのですか?」  これは哲学そのものです。人間にとって、自己の存在意義を問うことは永遠の命題です。あらゆるものは人間のためにあるという人間中心的な答えが長く続いてきましたが、悲劇的な環境破壊が進む中で地球全体をグローバルな目で見つめなおす考えが出てきています。人間も環境の一部である、という見方です。しかしこれは長い過去の人間中心を否定しただけであって、新しい答えだとは言い切れません。否定と反省だけでは世界中に閉塞感が広まり人々の苛立ちがつのるだけです。  先生のワークの光は、この問いに対してしばしばこう答えています。 「成長するためです。みんなで幸せになるために成長するのです」  この答えは、唯物論、唯心論のどちらにでも解釈の仕方で受け入れられるものです。産業も経済も幾多の犠牲を払いながら「みんなを幸せにするために成長してきた」のですから、過去の人類史との矛盾もありません。ただ近年、精神的、特に魂の領域から解釈することが出来るようになってきました。それはデカルトのように人間の外に完全なる神をおいて人間を観るのではなく、人間の中から光の目を通して人間を観る考え方になっています。この光とは狭義には、ひとりひとりの魂の中にある光を指すものですが、個々にある本来の光とは個々という概念を超越した万物の集合意識から発する光であり、究極的にはあらゆる時空間、時空域に広がる精神エネルギー体、「すべての宇宙からなるひとつの全体」なのです。先生によれば、光の世界が最終局面に達して、このひとつの全体に並んだとき、すべてが終わり、無となると同時にすべての始まり、有となるそうです。  ただし「人間は何のために生きているのか?」という話では、光は万物の集合意識の現れとして考えればいいのだそうです。こうやって考えると、人間は「完全になるため」に人生を繰り返しているのですから、個々の魂が完全になっていけば、最後はたくさんの光がある世界になります。もちろんそうなれば魂たちは「みんなで幸せに」なっていることでしょう。そしてこういう世界はもちろん存在するのだそうです。ただし、たくさんの光の魂たちが見上げる上には、はるかに眩しい光が輝いているそうです。それが万物の集合意識が発する光であり、その輝く光の存在を知った光の魂は、その大いなる光に吸い寄せられて上がって行くのです。個であり全体であった魂が大いなる全体に帰り着き、またひとつに戻るのです。これが「完全になったら最後はどうなるのですか?」 「光になります」の意味なのだそうです。  先生は時々、このような哲学的な解法を教えてくれます。実のところ、私にも内容はよくわかりません。でも、このような話をしている先生はとても楽しそうです。