2014年3月30日日曜日

おはようさん 2014.3.29.

土曜日の午後、万博公園でお散歩してきました。 もう桜さんは3分~5分咲きでしたよ。 いよいよ来週は桜ウィークですね。 満開の桜さん、昼間も綺麗やけど、夜桜も艶っぽくて大好きです。 今年はどんな写真を撮ろうかな・・・o(^-^)oワクワクしてきます。 自分の悪い所は全部個性になるし、人生で犯してきた間違いが魅力になるの。 (アンジェリーナ・ジョリー) 「人生で犯してきた間違い」 どれくらいありますか? 間違いっていうよりも、失敗っていう方がいいかな。 (それが間違いであったかどうか?って、閻魔さまの前に出るまでわかりゃぁしないからね・・・まぁ、閻魔さまが居るとしてのお話やけど) ただ、浮気しちゃったとか、あの人のことを誤解しちゃった・疑っちゃったとか・・・は、間違いだから、間違い&失敗ということで話を進めましょう。 間違いも失敗もない人生って、どんな人生かしら? 思いつくのは・・・刑務所暮らし。 完全に管理下に置かれた日々なら、間違いも失敗もないでしょう。 でも、自由も創造性もないよね。愛もないなぁ。 何かをやろうと・学ぼうとすると、必ず最初は間違えるし、失敗します。 自動車学校に通った頃を思い出してみて・・・縦列駐車に車庫入れ、坂道発進で何度失敗したことか・・・ 間違いも失敗も、何かをやろうと、新しい何かを学ぼうとした証です。 だから、失敗も間違いも多種多様なほど、かっこいい人に見えるんじゃないかな。 例えば、バイクの免許を取る。 それが原因で恋人が去っていった・・・あぁ 今生のソウルメイトを失ったぁ・・・おまけに事故って足が不自由になってしもうたぁ。今生の天職も失ったぁ・・・やっぱりバイクに乗ったのは間違いやったかな。。。 そこで凹んでしまったら、魅力はありません。 それでも、バイク雑誌のライターをしたり、バイク屋を開いたり・・・ともかく前向きに生きている人は魅力的ですよね。 自分の悪い所は全部個性になるし、人生で犯してきた間違いが魅力になるの。 (アンジェリーナ・ジョリー) 悪いところを個性にできる人 間違いを魅力にできる人は、それでも前向きに生きている人です。 どんなときでも前向きに生きていれば、 進取の精神を持ち続けていれば、 地球でオンリーワンになれるし、魅力あふれる人になれるのです。 (50代、60代、70代の患者さんたちを診ていて、つくづく思います) 前世物語  一つ目は、気づきを得るための人生です。これが一番多くて、「今回の人生の目的は?」という問いに対して、光や神様が具体的な目的を答えてくれるそうです。その人生の目的がその人生で得なければならない気づきなのですが、このタイプの人生には小さな気づきもたくさん練り込められています。そして、その魂にとってはちょっとレベルの高い上級問題にあたる気づきも予習みたいにちりばめられているそうです。 「まるで人生海岸の潮干狩りだね」  ?? これは哲学者特有の笑えないジョークでした。  二つ目が、気づきを強めるための人生です。この「アル中の娘」のように七難八苦の続く人生を、ただひとつの気づきを杖にして登り続けていくものです。気づきの杖は使い方がヘタだと、すぐに折れてしまいます。折れた気づきの杖を自分の手で修理して、再び歩き出すことも求められています。しかも気づきを上手に使いこなせるようになるのが目的の人生ですから、これでもか、これでもか、と険しい峠が襲ってきます。でもこの人生を生き抜いてくると、気づきの杖はすっかり手になじんでいることでしょう。 「三つ目は、幾何の問題みたいなものだよ」と先生は言いました。 前のふたつは数学で言えば、代数にあたるそうです。因数分解とか微分とか・・・の基礎問題と応用問題だと考えればいいそうです。解法と答えがストレートだから、が先生の代数の印象のようです。 「幾何の問題は図形を眺めているといろいろな解法が浮かんでくるだろう。辺と角度からでも解けるし、面積からでも解ける、微積分に持ち込んでもいいし、紙とハサミを使っても解ける・・・答えはひとつでも解法は幾通りもあるだろう。幾何の好きな人はみんな、解法をいくつも探しだすことを楽しんでいるんだ。数学を楽しむコツをつかんだ人だね。そういえば美子さんも数学が趣味だったよね」  確かに私は数学が趣味だと言えます、今でも「大学への数学」が通勤電車の愛読雑誌ですから。大学に入るまでは受験数学がどうしても好きになれなかったのですが、大学の教養部になぜかとてもウマが合う先生がいらして、気がついたら四年間、ゼミにまで潜り込んでいました。ピタゴラスのような先生で、教室の窓から瀬戸内のたおやかな午後の海を見つめたまま、ご自分の世界に入られてしまわれることが何度もありました。そんなとき、学生達は堂々とエスケープしてしまうのですが、先生は赤い靴をはいたアンティークドールのように海を見つめたままでした。私はそんな先生が好きで、一緒に海を見つめていました。先生にはキラキラ光る波間に時間が悠々と流れているのが見えていたのでしょう。あの時、私ははじめて学問の本質に触れることが出来たのだと思います。そして私も、町の数学者になっていました。私の絵画も、まるでダリのように時計や文字盤がたくさん出てきます。意図してやっているのではありませんが、数学が私の絵画に何かしらの見えないエネルギーを与えてくれるような気がするのです。 「三つ目の人生とは、それまで得た知恵、この場合は気づきだけではないかもしれないけど、ともかくすべての知恵を使ってひとつの問題に当たるんだよ。ある意味で総力戦だね。ただ、その問題がクセものなんだ。公案みたいなものだね。全力で戦おうとすると、それをはるかに上回る力の敵を人生に呼び込んでしまうらしい。そして人生が玉砕するまさにその時、粉々に砕け散った知恵の砂ぼこりの中に叡知界への入口が垣間見られるんだよ。哲学的には『感性的な知覚を超越した叡知に満ちた世界』だと習ったけど、天国という印象よりはソクラテスが待っている地獄の第一層のような気もするね。普通の人はそんなところへは行きたくないだろうね。やっぱり哲学者が集まる特殊なあの世だよ、あそこは。  この人生を計画する際の公案とは例えば、『麦』だとか、『海』だとかが神さまから提示されるだけなんだ。それをどう料理するか? それが魂の腕の見せ所なんだね。この時、必ずしも全力で戦う必要はないんだ。三つ星フレンチシェフが合格するとは限らないんだよ。なにせ神さまの舌は肥えてるからね。平々凡々な農夫や漁師の人生でも、わびの趣や残り香のような艶があれば合格するのだよ。例えば、ミレーは農夫たちを描くことできっと合格しているよ。彼の絵を見ると、心の奥底から伝わってくる微かな、でも懐かしい何かを感じるだろう? それは魂が覚えている叡知界のバイブレーションに、ちょっとくすぐられているのだよ。何度もこの人生コースにチャレンジして叡知界のバイブレーションにたくさん触れてきた魂ほど、感じやすくなっているんだ。そんな人は肉体を持って人生を送っていても、この世を超越している大いなるものに繋がっていることを感じ取りやすいし、叡知の力に守られて願望をどんどん叶えていくんだ。思い通りの人生を呼び込むことが出来る人だね」