2014年3月4日火曜日

おはようさん 2014.3.3.

今日はひな祭り。 旧暦の方が梅や桃や桜さんたちがほころんでいて、ええ雰囲気なんやけど・・・なんて、ちょいとジェラシーな春の日でした。 今日の光の前世療法は「今生の使命」をテーマに選んだ若い女性でした。 茶髪に茶瞳の男性に降りて・・・結婚して子供が生まれて、幸せに暮らしていました。が・・・村を守るために戦いに出なくてはならなくなって・・・人生が変わりました。 敵の大軍の前に村ごと消え去り、それからは荒野の洞窟でひとり暮らしながら死にました。 死後、魂となってその人生を振り返って見ると、その戦いに赴いたポイントに人生の大節目が見えました。 もしそこで他の道を歩んでいたら・・・家族といつまでも幸せに暮らした人生となったはずでした。 その過去生と今生を見比べてみると「同じ」でした。(どこが同じかは本人にしかわかりません) 魂が雲を突き抜けて昇っていくと、上に太陽がありました。その太陽の中に髪の長い女性が待っていてくれました。でも・・・光との対話を始めると・・・しばらくしてその女性は消えてしまいました。 さらに昇っていくと、今度は仏様がいました。でも・・・「まだ準備中」だと身動きしません。 さらに雲を突き抜けて昇っていくと様々な事象のフェイクがあって・・・昇って、昇って・・・やっとおじいさん(いつもの仙人さん)がいました。 ホンモノの光さんを知らないガイドやスピリチュアルマスターだったら、ここまで昇っては来られないでしょう。臨死体験やチャネリングでは、光との対話ができない(結局、その人の深層レベルの我欲やエゴが干渉してしまう)のは、こういう実体験からの確証なのです。 この方の使命は「貴方の笑顔がみんなを和ませる」 そして、若い女性の定番質問・・・「ソウルメイトと出会えますか?」「結婚できますか?」 光さんはちゃんと答えてくれます。 「3年後にソウルメイトと出会って、幸せな家庭を持てる」 そして、そのソウルメイトが今、何をしているのか?をのぞき見ると・・・ 自宅でPC作業を・・・クリエイターのような仕事・・・(もちろん、顔はぼやけています)・・・その自宅のまわりを上空から眺めてみると・・・近くに大きな公園がありました。 その彼の好きな色、好きな食べ物も尋ねて・・・(ここでは内緒) 仙人さんに「使命を果たすことができた未来の自分のビジョン」を見せてもらうと・・・ その自宅で彼と自分と子供が笑っているビジョンが見えました。 そんな未来の彼と自分からもメッセージをもらって・・・と。 私はこの光との対話を古代ギリシャ時代の神託と同じものだと思っています。 占いよりももっと神さまの声に近いメッセージです。 それが叶うかどうかは、本人が神託を信じて、その善き未来に向かってどれくらい本気で歩み出すかどうかで決まってきます。 羅針盤も宝の地図も手に入れて・・・怖いとか、危ないとか、信じられないとか、ひとりじゃ嫌だとか・・・尻込みしてると、お宝を手に入れることは永遠に出来ません。 ましてや人生の宝島は動きます。ひょっこりひょうたん島です。 ノロノロしてると、せっかくの宝の地図も役立たずの古地図になってしまいます。羅針盤だって錆びつくしねぇ。 ご神託の賞味期限は1ヶ月です。この間にさまざまなシンクロが起こります。 この小さなシンクロに気づき、それを芽生え、花咲かせることができれば、ご神託の効果はどんどん延長できます。 何もやらなければ、1ヶ月で終わり。シビアーでしょう。神さまってそういうもんです。 今日の方はきっと今生の代節目を上手に舵取りして、より善き人生へと進んでいかれることでしょう。 久しぶりに良いワークをさせていただきました。 前世物語  お母さんが病気で亡くなった娘さんにコンタクトできたケースは、いつも涙がこぼれます。私の子供たちは元気に育ってもう自立し始めましたが、たくさんのお母さんの悲しみに接する度に、あらためて自分の幸せをかみしめます。今あるものに感謝することを忘れないでいたいものです。  この症例のお母さんから、後日、お手紙をいただきました。先生も私も、このお手紙でとても励まされ勇気づけられました。 「美子さん、こんな方がおられるということが、このワークを続けていく意義なんだよね。過去生の真偽、光や神さまの解釈なんて、ホントはどうでもいいことなんだ。ただ、心を苦しめていた方が一人でも立ち直り、また人生を前向きに歩み始めていただけたら、それでいいんだよ。だって薬や手術ではどうしようもない問題なんだから。がんばって続けてきて良かったなぁ・・・こちらこそ、ありがとう、だね」  先生はそう言いながら、私の手をギュッと握りました。先生の喜びが握手した手から流れ込んできます。私の涙が急に激しく流れ出しました。 私はもう先生の前で涙を拭きません。真夏の夕立のような清々しい涙だからです。先生は私の涙を拾い集めながら、思い出を優しく押し返してくれました。  「美子さん、このお手紙はレポートに載せておいてね。お母さんのご承諾も取っておいてね」  私は女子高生のように頬を染めながらワープロに向かいました。    お母さんからの手紙  催眠療法を受け、あれほど会いたかった娘(それも元気な姿で!)を抱きしめられたことは、一生忘れることはありません。ずっと娘を守ってやれなかった、という想いが私自身を苦しめ、前を向くことを拒んでいました。でも娘からのメッセージを受け取ることが出来て、心がスッキリとしました。娘に恥かしくないように生きていこう、という力が湧いてまいりました。まだ気持ちの波はありますが、落ち込みそうになった時は、いつも雲の上を眺めて、そこに娘が立って手を振ってくれていると思うと元気になれます。  ただただ娘に会えたことが嬉しくて、元気な普通の女の子の姿をしていたことがこの上なく嬉しくて、娘を失ってからの三年というもの、何をしても誰と話しても決して癒されることのなかった私が、あの一瞬でウソのように何かを吹っ切れる、というよりは乗り越えられたような気がします。  先生の催眠を受けたあと、ボーゼンとしながら京阪電車に乗り込み京都に向かう途中、電車の中からふと外を見やると、なんと高いビルの屋上のところに大きな看板が「あさひ」と書かれてかかっているではありませんか!!!  そうです、あーちゃん、と呼んでいた私の娘の名前は『あさひ』。もうびっくりして言葉もありませんでした。まるで娘が「ママ! 私ここにいるよ!」と知らせてくれたかのように、夕暮れの美しく染まった空に「あさひ」という大きな文字を見た時には、さすがに、ついさっき受けた半信半疑の退行催眠なるものを信じずにはいられない一瞬でした。  娘が生まれるまでは何の苦労もなく脳天気に過ごしてきた私ですが、娘が障害児で生まれてからというもの、人の縁というものを深く深く感じ続けてまいりました。  娘は一歳の時に脳梗塞を起こしてからというもの、目も見えなくなり、気管切開で声も失い、口から物を食べることも出来ず、体も思うように動かせない上、十三度もの大手術を乗り越えてきました。  一体、娘は何のために生きているんだろう、娘が「生きて行く」ということ、その本質的な意味を模索する日々でしたが、時には見出すことが出来ず、「一日でも長く生きて欲しい、と思うのは親のエゴかも」と思い悩む時もありました。  しかし、言葉など使わなくとも、ただニコニコと天使のように笑っているだけの娘を見ていると、「ああ、この子は自分のためじゃなくって、私や『人のために』生まれて来てくれたんだ」と、心から実感することが出来ました。  その証拠に娘が生まれてからどれほど不思議な人の縁に出会ったかわかりません。それは娘が天国に逝ってからもずっとかわらず届けてくれているようです。  奥山先生との出会い、退行催眠との出会いもまさに偶然のもののように思われましたが、きっとこれも『あさひ』が仕組んだことなのでしょうね。