2013年12月13日金曜日

おはようさん 2013.12.13.

木曜日の午後は藤本蓮風先生の漢祥院での研修&鍼治療の日です。 最近、お疲れモードなので、この日がとても待ち遠しく感じます。 神経難病の患者さんや癌の患者さんたちが今日も治療に来られていました。 いつもとても勉強になります。 頭の勉強というよりも氣を感じるお勉強ですね。 蓮風先生の金の鍉針を翳す鍼でバーンと動いた氣に、今日もビリビリ痺れちゃいました。 薬師丸ひろ子風「カイカ〜ン」なのです。 先日、在宅往診へ向かう車中での看護婦さんとの会話で・・・ ふっと、ホスピスやりたいなぁ と言うと、 私もホスピスやりたいと思ってました、と言われて、何だかとても嬉しくなりました。 ホスピスと言っても、やっぱり私流じゃないとね。 緩和ケアーは嫌だな。 だって死の方を向いているもの。 苦しまないで(除痛して)楽に(安らかに)死を迎えるお手伝い医療=緩和ケアーだと私は思っています(あえて今はホスピス学会や緩和ケアー学会から距離をおいていますので、間違えていたらごめんなさいね) 楽にしてあげようじゃなくって、良くしてあげようというコンセプトが私流です。 「一緒に奇跡を起こそうよ」がメインコンセプトの医療です。 世の中に数多ある代替医療の中から、「これはほんまもんの匂いがする」という療法を厳選して、患者さんとの相性を見ながら取り入れていきます。 療法そのものとそれを施術する人を見抜く感性が磨かれてきて、残された時間の少ない患者さんひとりひとりに最適な療法をお薦めする自信が持ててきたからこその「ホスピスやりたい」宣言なのです。 蓮風先生もやはり生の方を向いておられます。 例え大病院で治療困難とさじを投げられた癌末期の患者さんでも、氣が動けば(生の匂いがすれば)その鍼は生きるための鍼となっています。 腹水が溜まって苦しい→鍼で腹水を軽減する。楽にするためだけじゃありません。 腹水を数ヶ月小康状態に保っていれば、臓器や免疫などの身体が治ろうとする力が蘇ってくるから・・蓮風先生の鍼には、良くなる、治るという東洋医学の叡智が輝いていますし、自然と共に生き、大いなるものに生かされているのだから大丈夫だという信じる力、念じる力が美しく流れています。 そう、私がやりたかったのは「一緒に奇跡を起こして治ろうよ」なホスピスだったんだなって気づいたのです。 現実にやれば・・・ほとんどの癌患者さんたちは亡くなるでしょう。 でもね、死と向き合って(死を受容して)死んでいくのではありません。 そもそも、死の受容なんてムリですもの(言い出しっぺのキュープラー・ロス博士だって死に際は・・・でしたものね)。だって、それが人間だもの。 生を輝かせるお手伝いをして、生を見つめながら・・・ある日、後ろにそっと倒れ込むように死に抱かれる。 癌などで死を宣告されるということは、とても幸せなことです。残された時間があるから。 脳卒中や心筋梗塞や交通事故などで突然死する人たちをたくさん診てきて、つくづく思います。 実際にやっていることは緩和ケア・ホスピスとあまり変わらないかもしれないけれど、「一緒に奇跡を起こして治ろうよ」って生を向いているモチベーションは、きっと大きな何かを生み出していくと思います。 美しく生きる。善く生きる。 死に抱かれるまでの時間に、自分なりの美と善を極めていただけるお手伝いをしたいと思っています。 (今日のブログは神さまへのプレゼンテーションでした(*^^)v <コンタクトの続きです> 「前の奥さんに、子供たちを産んでくれてありがとう、って言っています・・・ケンカしていたのに・・・」  彼女はちょっと驚いた声で言いました。私はそのまま続けました。 「タカシさん、あなたは突然、死んでしまいましたけど、何か恨んだり怒ったりしていることはありますか?」 「恨みなど何もない、と言っています」  事故死や病死をした多くの人たちとのコンタクトを行ってきましたが、それがどんなに悲惨な死に際であっても、誰ひとり恨みや憎しみを持ち続けていた魂はいませんでした。  遺していった家族たちへの強い愛はいつまでも続いています。しかし、加害者や責任者への恨みや憎しみの感情とネガティブなエネルギーは死と同時に手放してしまっているのです。  どんな魂も、とても穏やかな気持ちで遺していった人たちをいつも、ずっと見守っていてくれるのです。  私は彼女の質問を続けました。 「タカシさん、どうしたら私は前向きになれますか?」 「我慢すること・・・今が我慢のしどころなんだぁ・・・」  彼女は言葉を飲み込むように答えました。 「神さま、私の今回の人生の目的は何ですか?」 「しっかり生きることだ、って言われました・・・」 「神さま、しっかり生きるためには、私はこれからどうしたらいいのでしょうか?」 「子供たちが望むままに、って言われました。子供たちが私を導いてくれるようです」  今回の人生の目的は何か?  これは誰もが一番知りたい事柄です。私のワークでは必ず尋ねますが答えは人それぞれで、いくつかの真理にまとめあげることは出来ません。  ひとりひとりの人間は独自の目標を持って生まれてきています。それら無数の人生の目的に優劣はありません。人生の目的に達することが出来ても、途中で挫折したりあきらめたりしても、人生を終えた後で誰からも責められたり批判されたりすることはありません。うまくいった、失敗だったと一喜一憂することもありません。誰からも評価ジャッジされません。ただ、自分で次の人生を計画する時の参考資料にする際に、客観的で冷静な目でこの人生を詳細に振り返るだけです。人間の立場からこの作業を見たら、とても辛く恥ずかしいように思えるでしょう。しかし魂に戻ってしまえば、そんな想いは生じません。魂に戻れば、誰もが神さまと同じ愛に満ちた目をしているからです。  このワークを続けてきて分かったことは、魂に優劣はない、善悪はない、正しい間違っているはない、ということです。魂が人間の人生を通じて得ているもの、それは「体験」です。喜怒哀楽の感情であり、百八つの煩悩を実際に味わってみているのです。  だったら、人生は変えようのないものなのでしょうか?  不幸な人生、悲しく辛い人生は味わい尽くすまで、どん底に落ちるまで続くのでしょうか?  死ねば、そんな辛苦に満ちた目的をリセット出来るのでしょうか?  例え自殺して早く死んだとしても、この人生で味わおうとしていた目的は、そのまま次へと引き継がれていくかもしれません。次でなくても、いずれかの人生でもう一度やり直すことでしょう。その時、また同じ辛苦を一から味わうかもしれません。今の人生では、あともう少しだったかもしれないのに、その後にご苦労様の幸せな後半生が準備されていたかもしれないのに。  辛苦の人生は変えられないのでしょうか?  不幸は八方ふさがりで逃げ道はないのでしょうか?  魂は「体験」を味わっています。辛苦や不幸は抵抗すればするほど、ますます牙をむいて襲いかかってきます。それは死ぬまで続きます。死・・・それはすべてを手放すことです。魂には辛苦や不幸を実体験できないから、わざわざ人間をするのです。  人間と魂の差は何でしょうか?  それはすべてを手放せるかどうか、です。私たち人間が持っているいろいろなものを死は容赦なく奪い取ってしまいます。無理矢理手放させられるのです。ここにヒントがあります。  辛苦や不幸が襲ってきたら、抵抗せずに息を潜めて通り過ぎるのを待ちましょう。もちろん、艱難辛苦は味わわなくてはならないでしょう。それが人間として生まれてきた意味なのですから。 しかし魂がその艱難辛苦を味わうことが目的ならば、ちょっだけ味わって手放すことが出来れば、辛苦と不幸は足早に通り過ぎていきます。そして再び襲いかかってくることはありません。そこからは新しい人生が待っているのです。  艱難辛苦を味わうとは、どうすればいいのでしょうか?  艱難辛苦は体験として実際に起こります。その時の対処も限られています。それらを味わうとは、艱難辛苦に前向きに向き合うということなのです。不幸が襲ってきたら、背中を丸めて後ろ向きにしゃがみ込んでしまう人が多いでしょう。不幸の目を見つめなければ不幸の本質は分かりません。なぜその不幸が襲ってきているのかの意味がつかめないのです。  襲ってきた不幸の本質を見極め、その意味へ感謝することができたとき、その不幸の存在意義は消え去ります。不幸はすぐにどこかへと去っていってしまい、後に残った人の心は大きな成長を遂げています。もう二度と同じ不幸が襲ってくることはありません。この世に意味のないことは起こらないからです。  どんな艱難辛苦にでも、それが目の前に起こっている意味が必ずあります。それを見つけるためにはどうしても前を向かなくてはならないのです。艱難辛苦に向き合うことは簡単なことではありません。勇気も、忍耐も、気力も要ります。支えてくれている人たちへの感謝と愛も必要です。どこまで人を信じられるか、が試されるのです。  逆境の中で最後まで自分を信じて目を見開いたとき、すべての真実が見えてきます。大きな人生の理ことわりが分かるのです。  しっかり生きること・・・そこには深い意味が込められているのです。 <明日に続く>