2014年7月29日火曜日
おはようさん 2014.7.28.
超高齢化社会になってきました。
おとしよりばかりの毎日です。
みなさん、死にたくない と思っています。
そんなおとしよりたちの死生観を覗き見してみました。
まず・・・守るべき何かを持っている人たち。
それは愛だったり、財産だったり、家族だったり、地位や名誉だったり・・・
何か大切なものを持っているから、
この大切なものを守っていきたいから、まだまだ死にたくない。
よくわかります、その気持ち。
守りたいのは自分の幸せ・・・自分がこれこそ幸せだと思える何かです。
傍から見れば、それが本当に幸せなのか?
どうせ死んだらあの世には持って行けないでしょう? なんだけど・・・
これをエゴだ!と片づけてしまうのもどうかな。
所詮この世は自己満足なんだから。
幸せも死もやっぱり自己満足なんだから、いいんじゃないのかな、それで・・・と私は思います。
次に死にたくない人たち・・・守るべき何かはありません。
あれれ? 何もないじゃん?
そう、自己のアイデンティティが何もなく、ただ生きている人たちです。
生きがい・・・ありません。
愛・・・ありません。
大切なもの・・・自分の命くらいかな?
アイデンティティがない人たちも強く「死にたくない」と思っています。
「私はええ歳やから、ポックリ死にたい」なんて言ってる人に限って、ジタバタします。
このグループ あえて大衆と呼んでもいいでしょう このグループは、自己というアイデンティティがないから、漠然と死を怖れています。
死んだ時、アイデンティティがないと、自己が消えてなくなる、忘れ去られてしまう、という漠然とした恐怖を感じているのです。
だから、死にたくない。
だけど、日々の生の中で、アイデンティティを育む営みを始めようとは決してしません。
そんな人生は、まるで蟻や蜂 昆虫のようです。
生まれて、働いて、死んでいく。 そこに個はありません。
生はあったけど、死はありません。 消であり滅があるだけです。
このグループの人たちには、輪廻転生も極楽往生もないかもしれない・・・あるのは、ただ生だけ。生が終われば、滅して消えてしまうだけ・・・そんな 怖ろしい?ヴィジョンを光さんが最近、見せてくれていることに気づいています。
天命・天職・生きがいに目覚めて、その道半ばの人たちも死にたくないでしょう。
このグループの人たちは、愛も財産も権力も・・・天命・天職・生きがいの成就のためだったら、手放してしまう人たちです。
ある意味、怖い人たちです。 弁慶の仁王立ちのような死に方をします。
死にたくないというよりも、成就するまで生きるんだ、という強い執念を感じます。
やがてこのグループの人たちの中から、生死を超越してしまう人たちが現れます。
天に生かされるまま、日々を生きて、天命・天職・生きがいの成就を果たそうとする人たちです。
道半ばで死が訪れても、これも天命 今日は死ぬのに善き日だ、と笑って旅立っていきます。
この人たちにも、輪廻転生や因果応報はありません。
輪廻転生や因果応報に囚われる人たちよりも、もっともっと光に近づいているので、魂本来の自由さと創造性が輝き、そのひとつの魂自体が大いなる光そのものとなって、終わりの始まりを迎えます。
死とは何か?
生とは何か?
死んでみたら、わかるさ・・・ではないのですよ。
この生 生きざま次第で、滅してしまうのか? 悠久の輪廻転生の渦に投げ込まれるのか? 大宇宙の真理になるのか? がチョイスされるのです。
2011年を境に時空間が退縮し始めている、と感じていましたが、どうやら2011年以降の時空間の退縮はフェイクであり、2011年のピークと同じく「今、この時」だけに「生」が与え許されているように感じます。
最後の審判を告げるラッパが吹かれた と言ってもよいかもしれません。
額の刻印は・・・自らの生きざまで形作られるのでしょう。
死を怖れるより生を怖れよ
汝らは死を喜ぶものとなるであろう
前世物語
「孤独の何たるか、孤独の意味を知っているから、心に波風は立たないんだよ。ただ孤独を受け入れている。きっと感情も湧かないかもしれないね。感情の何たるかを知っているので、完全にコントロール出来てしまうからね。覚醒した人の心はどこまでも澄み切っていると思うよ。そして何かを想った瞬間にそれが現れているんだ。生きていくには困らないけど、次第に何も想わなくなっていくだろうね。まさしく神となって見守るだけ・・・になっていくのだよ」
先生は急に憂いに満ちた顔になりました。何かが先生の心に去来したのでしょう。私の愛がそれについては触れるな、と言いました。
「ある人の意見では・・・だったら、先生は一体どう考えているの?」
先生は私の中へ戻ってきて答えてくれました。
「過去生、未来生と言った一本の時間軸で考えてもいいけれど前にも触れたように、『過去も未来も今、同時に起こっている』と言い出している人が最近、急に増えているんだよ。誰も確証なんかないよ。でも確かに直感的にそのような気がするんだ。過去、今、未来を一本の時間軸で考えるよりも、この考えの方が想像もつかないくらいの膨大な事象を含むことになるんだ。そしてそのエネルギーは言い表せないくらい巨大になってしまう。果たしてそんなエネルギーが・・・いやいや、わからないよね。
生きる意味に気づくことと、こんな宇宙の神秘に触れることとは関係ないように思えるかもしれないけど、ドッコイ、関係があるんだよ。生きる意味には自分がこの世に存在する意味も含まれるだろう。例えば、ある人の今の人生の中に十ヶ所の人生の節目があったとするよ。それぞれイエスかノーを選べる節目だ。もうそれだけでその人生は1024通りあることになるよ。すると約千人の自分が生きているわけだね。その中には、これが本当に自分のなれの果て? と認めたくないような人だっているだろう。でも、自分がこの世に存在する意味を知るにはどうしてもその千人の存在を認めなければならないんだ。だって自分なんだから。たまたまあの節目でノーと言ったからそうなっただけであって、どんな人になっていようとやっぱり自分なんだよ。ホラ、子供がどんな悪人になっていても親は子供がかわいいものだろう、愛しているだろう。子供でさえそれなのだから、自分の分身を愛せないわけがないものね」
先生はわざとアッケラカンに言っているように聞こえました。
「自分がこの世に存在する意味は全ての人を愛すること・・・なのですか」
私は静かに尋ねました。温かい涙が溢れてきます。