2014年7月21日月曜日

おはようさん 2014.7.21.

今日は祇園祭の後祭 宵々山に行ってきました。 いつもの立身出世 鯉山さんの「登竜門」お守りと粽がお目当てです。 鯉山さんには左甚五郎作の巨大な鯉が鎮座ましましていて、運気上昇&ステップアップの力を授かったような気がします。(信じる者は救われる!) 我が家の玄関の粽はずっとこの「鯉山」さんです。 ご利益があったかどうか・・・それはこの世を卒業する時にわかることですので、今はつべこべ言わずに、素直に感謝しましょうね。 なぜ大阪なのに祇園祭の(八坂神社の)神さまなの? 新しいマンションに引っ越してきた当初、地元には氏神さまがおられたわけですが、どうもしっくりこなかったのを覚えています。 なんかね、無理矢理 みんな 氏子や!って押しつけられて、とっても窮屈やったのです。 神さまを勧進してくるのもOKって知ってたので、自分にピーンとくる神さまが現れるのを待っていました。 ものすごく深い関係となった出雲の神さまたちは我が家の神棚にドカンと鎮座ましましておられますが、なぜかいつの間にか祇園祭の神さまたち、特に登竜門の鯉山さんと災難避けの霰天神さんと親しくなりました。 能楽大連吟「高砂」との縁結びをしてくれたのも祇園祭でした。 炎天下の宵山を歩き回って、フッと目に飛び込んだ京町屋の前の「無料休憩所」の看板に・・・町屋で足を伸ばして涼んでいると、大連吟のパンフを持ったイケメン能楽師さんが・・・ 出会いとか趣味の始まりとか、そんなもんですね。 さて、今年から前祭と後祭にわかれた祇園祭です。 前祭は有名どころの鉾がいっぱい・・・今年もメイン道路が歩行者天国になって人があふれかえる賑わいでした。 後祭は・・・150年ぶりに復活した「大船鉾」が話題の目玉ですが、山は10基で、どちらかというと、通好みばかりです。 私は牛若丸と弁慶の橋弁慶山さんも、鳩のマークの八幡山さんも、黒一色グッズの黒主山さんも(ここには名物 解説おじさんがいるのです)、宵山で行者さんたちが護摩炊きをしてくれる役行者山さんも好きです。 でも、さすがにお客さんの数は少なかったです。祝日のお昼前後だったけど、去年の半分以下かな? そして、起死回生の新案? 後祭の山鉾11町を巡るスタンプラリーを実施! 全部廻ると、手ぬぐいなどの記念品贈呈! このスタンプラリーのおかげで、各山の入口は大渋滞&長蛇の列で。 でもね、そのまま中に入ってお参りする人、山飾りを観る人は・・・少なくて・・・あれまぁ(^^ゞ 日本人の大衆って、なんでスタンプラリーがこんなに好きなんやろう? せっかくの山飾りを観ずに素通りしてるんやでぇ? 祇園祭後祭の宵山に行ってきました。 何が良かったの? 何を見てきたの? ・・・・ ・・・・ ほら! 全部廻って、手ぬぐいをGETしたんだよ!(自慢) スタンプラリーが長蛇の列だった割には、全然 粽やお守り さまざまなグッズが売れていない現実をさてさて 来年以降の祇園祭の町衆さんたちはどうするのかしら? 乞うご期待な気持ちで帰って来たのでした。 前世物語 「美子さんは今日のワークで何が一番面白かった?」  この一言が初めての二人だけの夜の始まりの言葉でした。 「先生、今日のワークは私には難しすぎました。あらすじは何となくわかったのですが、内容となるともうサッパリです。ただ比較的わかりやすかったのは『今の仕事の意味』についてのところです」 「光が強過ぎて仕事の意味が見えない。仕事の内容はどうでもいい。その光が大切なのだ。その光とは太陽のように強いもの、みんなに影響するものだ。その光を口から飲み込んで自分のものにする。だから仕事だけではなく、全てのことが光を体現することなのだ。仕事は表現するための道具なのだ。仕事自体に意味はなく、自分自身が意味なのだ」  先生が自分のメモを読みあげてくれました。先生の字はまるで早稲田速記です。私にはとうてい読めません。このままこのお仕事を何十年か続けていけば読めるようになるかもしれませんが・・・この夜はいつもの楽しい妄想は消し去って、私は先生の話に集中していました。 「これだけでも深い意味が込められているね。『自分自身が意味なのだ』なんて言われちゃうと、もう何も返す言葉がないよ。この世の仕事は自分を表現するためのひとつの道具に過ぎないものであって、この世に生きている自分のすべてを使って光を体現化することが、この世に自分が存在している意味だ、と言っているのだね。昨今の姦かしましい政治家と官僚に例えれば、肩書き、権力、資金等々があれば、確かにこの世を生きていくのは楽になるだろうね。とりあえず好きなことが出来るから。しかし彼らは光を体現化できているのだろうか? 彼らが体現化しているとすれば、それは光の中の地獄の部分だけだろうね。彼らにとっては仕事とその結果だけが大切なのであって、確固たる自分の光を持ち続けながら仕事を道具として使いこなしている人はこの時代には見受けられないよ。本末転倒して仕事に飲み込まれてしまった人たちばかりが目につくからね。  ここで気をつけておかないといけないのは、光は善であり正義であり喜びである、と偏った捉え方をしてはいけないのだよ。それはいわゆる神と光を混同していることになるからね。神が善、美、正義、喜び、幸・・・で、悪魔が悪、醜、偽、悲、不幸・・・だとすれば、光は神と悪魔を合わせたすべての根源だと言えるんだ。こういう考え方は未開社会の考え方だ、と否定してはいけないんだ。悪魔は二元論的な世界観を支えるための大黒柱としてモディファイされてきたものなんだから。古代ギリシャではダイモーンは死者の魂であって、単なる霊的存在にすぎなかったんだ。哲学や倫理学が社会を支えていた神々の黄昏の後の世界だね。そして次第に世界に二元性が浸透していき、神対悪魔の図式が確立されていったんだよ。今、私たちがやろうとしているのは二元性からの脱却ではあるけれど、決して元の一元性にそのまま回帰しよう、と言っているのではないからね。二元性を踏まえて、まったく新しい根本概念を生み出そうとしているのだよ。その現れが『光』だと思うんだ。