2013年4月16日火曜日
おはようさん 2013.4.17.
先日、久しぶりに関西で大きな地震がありました。
阪神淡路大震災以来の大きな地震でした。
関西は東南海・南海の巨大地震のリスクの上で暮らしています。
東南海・南海トラフは静岡沖〜東京湾の巨大地震や富士山・箱根噴火に直結してるようですから、日本中、どこもかしこもリスクは同じでしょう。
阪神淡路大震災以来、免震構造のマンションや家が増えました。
地震が夜、免震構造の我が家に居る時に来れば何とかなりそうですが、
なかなかそうはいかないかもしれません。
例えば、昼間のお仕事中。朝夕の通勤途中。休日の繁華街や地下鉄。
我が家に居ない時の方が多いかもしれません。
そして、いざ、巨大地震が襲ってきた時、
とてもじゃないけど、動けません。せめて近くの机の下に潜るくらいでしょう。
阪神淡路大震災で阪神高速が落ちた時、助かった人と事故に巻き込まれた人との差はわずか数分。
前には一台も車がいなくて、いつもよりスピードが出てた・・・
前にトラックが走っていて、スピードダウンしていた・・・
そんなちょっとしたことで、運命が分かれてしまいます。
巨大地震の時、助かる人と助からない人の違いは何でしょうか?
偶然やアットランダムで助かる・助からないが決まっているようには思えません。
そこには大きな意思があるように感じてきました。
きっと古代の人たちも、同じような大きな意思を感じていたことでしょう。
やがてそれが「神の意思」という方便として宗教や政治で好き勝手に使われていきます。
科学万能の時代になると、「神の意志」は「運命・さだめ」に言葉を代えていきます。
世界で最も高性能のスパコンに尋ねてみたいですね
「なぜ大地震で助かる人と助からない人がいるのですか?」って。
光さんに個人ワークを通じて何度も尋ねてみたことがあります。
すると、いつも同じ話をしてくれます。
「どうやって大災害で助かる人を見極めるのですか? あれが偶然ですか? それとも、ちゃんと助ける人は決まっているのですか?」
「決まっている」
「助かる人と助からない人の違いは何ですか?」
「光ってるかどうかで決まる」
「その光とは何ですか?」
「生きてる証(人生を生きていると魂の光が輝き出す)」
「どうやって助ける人を見分けるのですか? 大地震の一瞬の中で、助けるべき人たちを完璧に助けることなど出来るのですか? たまには間違えることもあるんじゃないですか?」
「まちがえることなどない。簡単なことだ」
「そうは言っても、人間はパニックになると予想外の行動をするから、たまには間違えることもあるでしょう?」
「間違いはない。簡単だ」
「では、どうやって助けるべき人たちを見分けるのですか?」
「簡単なことだ。光を拾い上げるだけだ」
そうなんです。
大震災の時、神さまの目には、例えば、国際宇宙ステーションから夜の日本を見下ろしてるように、人の光が見えるそうです。
神さまは、ひとつひとつの光を拾い上げるだけ。
人間にとっては一瞬でも、神さまにとっては、ゆっくりとひとつひとつの人の光を拾い上げるのに十分な時間なのです。
だから、簡単。
誰もが内なる光を持って、生まれてきました。
まず、両親家族のエゴが光を襲います。
〜あるべき・〜してはならぬ・みんなと同じに・目立ってはならぬ
ダメな子・出来ない子・バカな子・やめなさい・無理・ムダ・黙りなさい
学校と社会が追い打ちをかけて光を弱めます。
光をさまざまな呪縛の檻に閉じ込めてしまいます。
いつしか、光を失っています。
生きがいがわからない人・人生が楽しくない人・日々是好日じゃない人は光を見失っています。
その光をかざすことが出来なければ、大災害の時、光さんには助けてもらえないのです。
この光はお金では買えません。
誰かから奪うこともできません。
財産・権力・名声・暴力・・・役に立ちません。
そもそも、自分の光は自分の中にあるのですから、他所から光を持ってくることなどできません。
この光に日々の小さな幸せと感謝をくべると、内なる光は大きく、明るくなっていきます。
日々の小さな幸せと感謝を得るには、ネガティブな思い込み&刷り込み、さまざまな呪縛から自由になることが求められます。
大震災が襲ってくるのも間近に迫って来たように感じています。
いざという時、自分の内なる光を高々と掲げて、光さんにうまく拾い上げてもらいたいものですね。