2014年11月21日金曜日

おはようさん 2014.11.20.

今朝もいつもどおりの時間に医院に行きました。 まだ消防車が数台止まっていて、消防隊のみなさんが作業を続けていました。 お日さまの下で医院と出火元のアパートを見ると・・・すごい火事だったんだ、と改めて実感しました。 医院より向こうのアパートは全焼、屋根も二階も崩れ落ちていました。 医院二階の屋根もすっかり青天井で、まだ煙がくすぶっていたからかな? 放水が続いていました→つまり、医院の中はまだ滝雨状態で。 幸いだったのは、行方不明だったアパートの住人が無事だったこと。 朝から野次馬もいっぱいいて・・・「この患者さんは性格悪いから嫌いやな」な人たちはやっぱり心ない野次馬になっていて、哀しい人間模様を噛みしめました。 反面、「この人は心根の優しい人やなぁ」な患者さんたちは、私の顔を見ると、涙を流しながら皆の無事を喜んでくれました。 昨日、持ち出せなかったものを持ち出したり、火災保険等の連絡をしたり・・・ お薬が切れる患者さんたちも不安げに来られました。 昨日、待合と受付は豪雨でしたが、奇跡的にカルテはほとんど無傷だったので、無事にお薬を処方することができました。 患者さんたちは昨夜、眠れなかったのでしょう。みなさん、血圧が上がっていました。 頓服の降圧剤を飲んでいただいて、スタッフたちとしばらく雑談をしていただいていると顔色も戻ってきて、安心して帰っていかれました。 今日は消防と警察の現場検証があって、医院の中も写真を撮ったり、計測したりしていかれましたが、火元でないことはあきらかなので、夕方には解放していただけました。 火元のアパートの部屋は元々無人だったそうで、漏電と不審火の疑いで胸まで埋まる高さのがれきを除きながらの検証が夜まで続いたそうです。 でも結局、出火原因は不詳のままだとか・・・ 医院の二階はほぼ全焼したのに、医院は類焼しなかったことも奇跡的だそうです。 う~ん、診察室にはってある祇園祭霰天神さんの「火乃要慎」のお札が効いたんだよ!・・・とは消防さんには言えなかったけどネ。 今日一番悲しかったのは、一番安全だと思っていたレントゲン室にしまってあった、ずっと撮ってきた中判フィルムたちがぜんぶ水没してしまったことでした。 火事の時、もう屋根から炎が立ち上り始めて、医院内も煙で前が見えなくなっていましたが、レントゲン室に酸素ボンベが数本置いてあることを思い出して、消防隊を案内してレントゲン室に入りました。酸素ボンベを持ち出しながら、フッとフィルムくんたちと目が合いました。でも、持ち出してあげられませんでした・・・わかってくれるかな? フィルムくんたち。。。 レントゲン室は鉛で覆われているので大丈夫だろう、と思って、昨夜、ほぼ消火してから医院の中に入った時も、レントゲン室はまだ水没してませんでした。 でもその後の放水が溜まり溜まってレントゲン室に流れ込んだのか? 今朝はナイアガラの滝になっていました。 ちょっと凹んでいると、我が家のカメラくんたちから「これからもっと撮ろうよ!」の大声援が聞こえてきました。 そう! ちゃんと生きてるんだから、これからもっともっと撮りたいものが撮れるはずだよ! 濡れてしまったフィルムくんたちは、ボチボチと乾かしていきますね。 (実は火事後の書類や手配でとっても忙しいのです) 明日は火災保険の鑑定人さんが来てくれるし、大家さんから今後の方針をうかがえるはずです。 また明日も忙しい一日になりそう!  ひとつひとつ着実にクリアーしていきますね。 明日もがんばるんばっ☆彡 P.S. 今日はさすがに蓮風先生の鍼を受けには行けませんでした。来週は行けるかな? 前世物語  そう考えてくると、『今』のこの一瞬はとても大切なのがわかるだろう。魂が何度も人生を繰り返すからといっても、『許し』が知恵となる一瞬はこの『今』の中にしかないからね。『許し』が知恵となれるのは、『今』この時だけしかないのだよ。深く虚ろな孤独の中で『今』にだけ集中していると、きっと『許し』の知恵がこちらを覗き込みながら通りがかるのが心の目に見えてくるよ。その時、『許し』の知恵をつかみ取るのだよ。その時きっと、悟りの中へ足を一歩踏み入れることが出来るんだ。そこからは『愛』を間近に見ることが出来るんだ。『愛』への道程みちのりは果てしなく遠いけれど、でも『愛』とは何かがはっきりと見え始めてきたから、もう大丈夫なんだ。それに今までよりももっと早く歩めるようになっているからね。背中を見たらわかるよ、だって背中に『許し』の羽根が生えているからね」  先生はそう言いながら、私の背中を覗き込みました。私は目で尋ねました。 「どんな羽根が見えた?」  先生は両手を赤ん坊を抱くように拡げて微笑みました。 「順調に羽根が育っているよ。もうすぐ飛び立てるよ」  そう言っているように私の心に聞こえました。  私も先生も形は違っていても、同じ時期に深い孤独と寂しさを味わいました。先生はスピリチュアルなプロセスを辿って行く過程で孤独と寂しさに繰り返し襲われました。そこで先生も、「自分を許すこと」=自分を執拗に責め続けないこと、自分をまわりの生贄にして自分を見捨てないこと、人生を楽しむこと、「自分を愛すること」=自分の存在を自分自身が認めてあげること、自分をほめてあげること、「人を許すこと」=人へのネガティブな感情やエネルギーを手放すこと、人の中に在る自分の存在を見つめてみること(すでに自分を許せているのだから、他人の中の自分を突破口にしてどんな人でも許せるようになるらしい)、を学んできたそうです。そしてこの「人を許す」辺りで自然とワンネスの体験が訪れて、すべてはひとつ、あなたは私で私は凡て・・・の境地に至ったらしいのです。ですから「人を愛する」は無いのです。自分を愛する=人を愛する、であり、愛は凡て、全ては愛、だからだそうです。  私は突然訪れた孤独と寂しさの中で先生に出会いました。それはスピリチュアルに見れば、予定通りであり、私の人生のシナリオ通りだったようにも思えます。私にあの不幸が訪れなくても、私は幸せな人生だと思ったことでしょう。それはそれで構わなかった、と私は思っています。でも、孤独をくぐり抜けてスピリチュアルなプロセスを歩んでいる今の私を見ていると、とっても人生を楽しんでいるように見えます。永遠の仮説ではあっても人生のからくりを知り、『今』を大切にしようと思い始めた私には、私の人生の目的も生きがいも以前よりはっきりと見えているように思います。先生はそれでいいんだ、と言います。私もそれでいいんだ、と思います。ただそれだけのことでいいのだと思うのです。