2014年11月20日木曜日

おはようさん 2014.11.19.

奥山医院からのお知らせ 隣家の火事に伴う医院冠水のため、明日 11月20日の外来診療は臨時休診させていただきます。 尚、お薬のなくなる方は午前9時~午後2時まで、隣の薬局にお越しください。 本日(11月19日)午後4時すぎに、医院と棟並びの古い木造アパートから出火して、あっという間に医院も煙でいっぱいになりました。 ただちに全員避難して、患者さんもスタッフも全員、無事でした。 こういう時ってなかなか消防車が来ないものですね。 火の手はどんどん大きくなって、医院の二階部分の屋根からも火の手があがりました。 貴重品は持ち出していましたが・・・!!! 酸素ボンベがたくさん残ってる! 酸素ボンベの怖さ・・・火炎爆発するとロケット弾のように数キロは宙を飛んでいくとのこと・・・あの重いボンベが直撃したら大変です。 消防隊にその旨を告げて、一緒に煙の中に入っていってボンベを全部運び出しました。 そこでやっと放水開始・・・でも、医院の上の屋根は崩落してしまい、さすがに全焼の覚悟を決めました。 消防隊はテキパキと放水してくれてますが、火の手は衰えたと思うとまた勢いをぶり返して真っ赤な炎が天井を突き抜けていきます。 火事をこんなに間近に見たのは初めて・・・あまりの火の勢いに近くの工場まで避難しました。 医院からは火の手はあがりませんが、ものすごい水が医院に流れ落ちているのが見えました。 スタッフは気も動転しています。 近所の人たちも興奮したり落胆したり・・・さもありなん。炎は北風に煽られてさらにアパートを焼き尽くしていきます。 (この北風が幸いして、医院の類焼は免れました) もうじき医院の天井も崩落して、全滅やなぁ・・・ でも不思議に冷静でした。 まるで本能寺の変の際の官兵衛のように、もう次の次 明日の明日のことを考えている自分に驚きました。 今月分のレセはひと月遅れの手書きで出せるように手配しなくちゃ・・・ 火災保険の担当さんに知らせなくちゃ・・・ 家主の性格と懐事情からして、建て直しはできないやろうな。つまり・・・ 目の前で今にも紅蓮の炎に飲まれようとしてる我が医院を見ながら、なおも冷静でいられたのは、これが神さまの仕業だってことがわかっていたからです。 どちらに向かってか?はわからないけど、ともかく神さまが背中を思いっきりグイッと押してくれんだってわかっていました。 神さまに退路を断たれた背水の陣 もう前へ進むしかありません。 そして前へ進めば、神さまはちゃんと道を見せてくれます。 分かれ道ならば、自分が本当に楽しい方、笑顔になれる方、その上で世のため人のためになる方へ進めば良いのです。 世の中が大きく動く第一歩に立って、ワクワク&ドキドキできる幸せを噛みしめています。 さぁ、がんばるんばっ☆彡 前世物語  もし肉体に死が訪れなかったなら、私たちはいつまでもその肉体に縛りつけられたままになってしまうよね。もちろん長い間生き続けることにも学ぶべきことはあるけれども、もしもみんなの寿命の数倍も生き続けたとして学べたことといったら、きっと想像を絶するような孤独感くらいだろうな。仮にそんな孤独感を具現化したかったのなら、生まれてくる環境や時代をちょっ修正するだけで十二分に味わえるわけだから、それこそ(人間界での)時間の無駄だ、ということになってしまうだろうね。  私たちの魂は知識を具現化して学び、そして得られる知恵をとても貪欲に求めているんだ。人間界の全ての知恵を味い尽くそうとしている知恵のグルメなんだよ。どんな所へでも行って、どんなものでも食べてみる、それが食のグルメとなる道ならば、どんな時代のどんな国のどんな人生でもやってみることが魂が知恵のグルメとなる道なんだよ。もっともこれは、魂がある、という前提の話だけどね。私は魂が人生を転々とすると考えた方が今を楽しく生きれると思っているんだ。だって一生同じ料理ばかりなんて嫌だもの、それが例え三つ星フランス料理だとしても一生は・・・ね。  魂が知恵のグルメになるには、どうしても魂が続かないとまずいんだよ。そして、そのためには適当に『死』がやって来てくれないと困るんだ。知恵のグルメにとっての『死』とは、あるレストランのメニューを味わい尽くした後に別のレストランへ移動するようなものなんだ。だから、せっかくなら席を立つ時にはシェフにお礼と感想を述べて、笑顔で足取りも軽く次の店へと繰り出したいものだね。すべての人々に共通する肉体の死を、私はこういうふうに捉えているんだよ。  そして、もうひとつの人類共通のテーマである孤独は、私たちに自分を許し、人を許すことの気づきをもたらそうとしてくれているんだ。それはとても漠然としていて、孤独の苦しさのどこに『許し』があるのだろう、と何回も何回も人生を繰り返しながら、みんな呟いているんだよ。恨まれ役をやってみたり、恨み役をやってみたりしながら、『許し』とは何だろう、と私たちの魂は模索し続けているんだね。