2014年2月4日火曜日

おはようさん 2014.2.3.

今日の「光の前世療法」は、久しぶりに亡くなった息子さんとのコンタクトがテーマでした。 黒い短い髪、黒い目、浅黒い肌を布で包んだ裸足の男性に降りて。 その時の息子が今の息子さんでした。 これといった波風もない人生でした。 最初に現れた光さんは優しい顔の人でした。 でも、質問にちゃんと答えてくれません。 次に現れたのは仏さまのような女性でした。 でも、やっぱり質問にちゃんと答えてくれません。 最後に現れたのは、愛いっぱい女神さまでした。 でも・・・やはりしっかりと答えてくれません。 仕方ないので、側にいた過去生の男性に質問すると、いろいろ答えてくれました。 でも・・・これまでとは何かが違う・・・ このクライアントさんの問題ではなく、繋がってる光さん自身の問題。 そう、光さんが大きく変容していると感じました。 2011年前後に、いはゆる「アカシック」が崩壊しました。 今でも2010年までの時相から入れば、アカシックレコードは昔のままの殿堂で存在していますが、2012年以降の時相(つまり「今」)から訪れると、そこは殿堂の廃墟のままです。 あの時以来、光の世界と古い闇の世界がくっきりと分離してしまい、以後、どんどん乖離していっています。今ではよほど意識を純化しなければ、(生きたまま)互いの世界を行き来することはできない距離になってしまいました。(もちろん本当に死んじゃえば、比較的簡単に行き来できますが) 不幸にして?? 退行していってる古い闇の世界にいる私たちですが、このままずるずると時代退行していくのかしら? と思っていたら、どうやらそうではないようです。 死後の世界・・・魂が大いなるひとつの光に還っていくプロセスに何やら大きな変容が起きているようです。 そういえば、今年、初詣に出雲に行こうとしたら、神さまたちから「今、来ても、誰もおらへんで」と告げられました。私はてっきり「喪中だからダメなんや」と思ってましたが、どうやら今日の「光の世界の変容」と大きく関係があるようです。 去年の出雲大社遷宮の頃からずっと今でも、出雲は「神無月」なわけです。 出雲の神々、つまり縄文の・・・もっといえばレムリア、アトランティスと続いてきた光の神々たちがこの一年近くもどこにも不在なのはどういうことでしょう・・・ 光の神々がいなければ、当然、死後の世界も変容してきます。 池川明先生の「胎内記憶」にも何やら変容が生じてくるかもしれませんね。 光の神々がいない死後の世界、そして光の世界とは・・・? それはこの世に例えるなら、規律、道徳が消え去った無法地帯のようになるかもしれません。 我欲の大いなる光、エゴで充ち満ちてる大いなる光。 我欲の愛、エゴの和。 それらが神と崇拝され、絶対視される世界。 純粋さよりも大きさ、強さがより良いとされる世界。 ・・・最悪やなぁ・・・ でも、銀河通信によれば、これも善き兆しだそうです。 これまで(死後の世界から光の世界の間近まで)天上高くまで盛り上がっていた我欲とエゴの世界が、まるで一夜明けた綿菓子のように縮んでいっているんだそうです。 東京ドームの空気圧を抜いたら屋根が凹んでくる姿に似てるかな。 以前のように闇の世界と光の世界の境界がパンパンに張りつめていれば、簡単に境界を破って光の世界へ行くことも出来たけれど、今はその境界がたるんでいるので、かえって破りにくいのだそうです。 境界を破れないまま、向こうの光の世界を透かし見るから、光の世界が変容しているように感じるのだそうです。 光の世界は何も変わらないよ、安心してねって。 出雲の神々も一端、光の世界の側へ戻っているそうです。そして、こちらの闇の世界が退縮していったスペースに(亜空間的なスペースという概念)出雲の神々は腰を下ろして、こちらの世界がこれからどうなっていくのかを眺めているそうです。 こちらの世界はこのまま退縮していけば、どうなるの? それはね、陰陽対極だよって。・・・なるほどねぇ。 結局、光の世界では善も美も愛も・・・すべて光です。 闇の世界が究極まで退縮して爆発すると、そこに残るのは善・美・愛です。 光というのは闇から生まれて、闇の対極でしかなかったのだけど、その闇が縮退して爆発することで次元上昇が起こって、善・美・愛の世界が始まるのだそうです。 それも・・・間近だよって。うふふ。。。 といことで、今夜の銀河通信は・・・お・わ・り。 前世物語  この症例は、夫を亡くした妻が「夫との関係がわかる過去生へ」戻ったワークです。私も同じ立場ですので、この方のお気持ちはよくわかります。私の個人的には大好きな症例です。特に際立ったメッセージはありませんが、過去生も魂での対話も、全体が暖かい幸せのエネルギーで包まれています。  春日和の一日。そんな人生を睦まじく二人で生きていくのもすばらしいことです。 「今回の人生の目的は何ですか?」 「良く生きることです」 「それはどういうことですか?」 「自分のやりたいようにやっていけばいいのです」  この自由さは光との対話の中を流れる大原則です。  ただ自分から一歩を踏み出しさえすれば、魂のレベルではその結果の成否を問われることはありません。自分の意志で前へ踏み出すことが良く生きることだ、と私は思います。今まで体験しなかったことをすべて体験して学んでいく、とは心を開いて人生を歩み続けていくことなのでしょう。どの方向に歩んでいくのか、その選択の自由は光が保障してくれています。だから私たちは失敗を恐れず、自分で決めた道を進めばいいのです。 「いずれは全ての失敗も成功も体験しなくてはならないのでしょうか?」 そう先生に尋ねました。 「人生の喜怒哀楽や富貴貧賎に流されてしまって、失敗や成功から魂が学ばなければ、いつまでも失敗と成功を実体験し続けるだろうね。でも魂はそんなにおバカさんじゃないよ。実体験を繰り返して学んでいくうちに、人生で実際に体験しなくても魂にとってはリアルに体験できるようになってくるんだ。学ばなくても知っている事柄が増えてくるんだよ。  例えば、かけ算の文章題。問題の数はこの世の中に無数にあるよね。じゃぁそれをすべて解かないと、かけ算の文章題がマスター出来ないなんて誰も思わないだろう。最初は誰でも頭をひねりながら解くけれど、何十題、何百題と解いているうちに、問題を見ただけで解き方も答えも『知っている』レベルに達するよね。そしたらもうかけ算の文章題は卒業だろう。  魂の修業もそんなものだと思うよ。人生をやり始めた頃は喜怒哀楽、富貴貧賎を散々、実体験するんだ。肉体で悦楽と痛みを感じることに溺れ続ける人生が続く時期だね。そのうちに少し気づき始める、肉体の中の魂の存在を。そして魂が学び始める時期になる。これも長く続くよ。永遠に感じるほど長く学び続けなくてはならない。でも長く学んでいくうちに、人生の中で魂が占める部分が大きくなっていくのがわかるから楽しいよ。そしてある時、知っているレベルに達するんだ。学ばなくても知っている境地だね。そこまで行くと、もうほとんど源の光とひとつになって見えるだろうね、目で見えればの話だけど」 「先生、それって魂の波動が高くなって姿が見えなくなる、という話のことなの?」 「それは魂が学び始める時期の後半に起こりえることだね。魂に本当はレベル分けなどない、と私は思っているけどね。この時代はどうしてもまだ時間軸に合わせて事象を考えてしまうけど、初歩の時空理論的に時間軸をはずして考えてみると、魂なんて好き勝手な人生を好きなだけ同時に体験出来るんだ。例えば、喜怒哀楽どっぷりの人生とエンライトメントした人生を同時に体験することだって出来るんだよ。そういう視点から魂を見てみると、魂の波動レベル云々は確かにわかりやすいスケールなんだ。  魂の話って実際に伝えにくいだろう。この過去生のワークでも、とんでもない誤解を持って受けに来られる方も多いからね。大昔よりは普通の人たちも魂を理解できる土壌が出来てきてはいるけれど、その魂への理解を深めていこうとする時には、やはりわかりやすいスケールが必要なんだ。魂の波動レベルというスケールは近未来の人々に必要なものなのだよ。だから今、一斉に魂の波動論が花開いているんだよ。スケールなんてそんなものだろう、必要な時に現れ、要らなくなったら忘れ去られる。真珠取引の匁とか、長さの尺寸とか、だね。だから絶対に真実だ、と頑なにならないで、便利だから取りあえず使いましょう、でいいと思うよ。ファジーすぎるかな?」  先生は、はるか遠くを見つめながら、こう教えてくれました。  私にはよくわかりません。でもこのお話は同じ境遇の方のワークの後で、なんだか喜怒哀楽に再び飲み込まれてしまいそうだった私をしっかりと先生の助手に引き戻してくれました。私はニュートラルな私のポジションに戻って、その日を終えることが出来ました。