2015年7月17日金曜日

おはようさん 2015.7.16.

台風が四国から中国地方を直撃しました。 祇園祭前祭巡行はどうなるでしょう? 山鉾は風に弱いからなぁ・・・とても心配です。 今年の祇園祭宵山では、地元の洛央小学校の子供たちが、それぞれの山鉾グループに分かれて、観光客向けにパンフレットを配ってくれていました。 積極的に配ってるチームもあれば、人見知りチームもあり(ちょっと泣きべそチームも)とてもかわいい&COOLなチャレンジだ感心しました。 油天神山さんの前で、自転車で各チームを激励して走っていた担任の先生とお話できました。 先生、お顔が日焼けで真っ赤に。 それでも、とってもうれしそうでした。 浴衣に着替えて山鉾GOODSを売る子供たちだけがお祭りに参加しているのではなく、山鉾町の子供たちみんながそれぞれの山鉾の歴史や秘密を調べて、パンフレットにして、宵山に実際に繰り出して、自分たちが手渡す・・・すばらしいチャレンジです。 では、いただいたパンフをご紹介しますね。(子供たちに敬意を表して原文のままで) 由来や思いがいっぱい「木賊山」 木賊山の歴史 父を探しに信濃の国行き運命的な再会をした物語の由来になっている。ぼくは、この物語を聞いて会えたのはおどろきました。その時におきなは、とても喜んだと思います。 木賊山のひみつ 世阿弥の謡曲”木賊山”が由来。そこからぼくは”木賊”の曲があるなんて知らなかったので、機会があるなら聞いてみたいです。 迷子のお守りは山のテーマに由来。そこからぼくは迷子のお守りがあるということは祇園祭で迷子になる人が多いのかなと思いました。 御神体の説明 わが子をさらわれて、1人信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁をあらわしている。 右手に鎌、左手に木賊をにぎっている。 少しだけ開けた口・無表情の眼でさびしさを表している。 御神体は、子をさらわれてしまったからおこってストレスかい消のために木賊を刈っていると感じた。でも、近くにあった物で刈っているのか、何か理由があって木賊を刈ったのか分からない。もし、何か理由があって刈っているなら、その「理由」も調べてみたい。 どんどんなぞが出てきたからますます調べたくなった。 ぎおん祭1ヶ月の行事 前祭  7/1吉符入 7/2くじ取り式:山鉾の巡番決定 7/10~7/14 ほこ建て ひきぞめ:(木賊山は13日から山建てです。 7/14~7/16 宵山:祭り最高潮となる。 7/17 山鉾巡行:(9時から)5時間かかる。 後祭 7/18~7/21 後祭のほこ建て(10基ある) 7/21~7/23 宵山:四条は歩天× 7/24 山鉾巡行(9:30~) 行事を調べると宵山の他の行事も重要なのだと知りました。木賊山は、前祭の巡行で、山七番です。注目してください。 ・・・・これはぜひ、深野師匠に洛央小学校で「木賊」を演じていただきものですね。 続いて、 紅白梅がよく似合う「油天神山」 祇園祭の歴史 祇園祭は、八坂神社の祭です。約千二百年前から行っている祭で、日本三大祭の一つです。 現在のようにかざりつけられた山や鉾を巡行させるようになったのは、室町時代からです。 インタビューでお世話になった人 保ぞん会理事長 田辺さん 保ぞん会理事  鳥井さん 油天神山の特ちょう 油天神山のどうかけの絵はつながっています。他の山はつながっていないのでぜひ見て下さい。 学問の神・菅原道真 菅原道真とは油天神山の天神さまで、すごく頭のいい学者、政治家でした。大臣になり、つかえていた人が出家してしまったとき、藤原氏との対立がはげしくなり、デマをながされて、大臣から九州太宰府の役人にされ、もともと健康ではなかったので、亡くなってしまいました。その後、疫病がはやり、人々はそれを菅原道真のたたりだと思い、天神さまとしてまつりました。 油天神山の由来 この山は菅原道真をまつる山です。菅原道真は、頭が良いので天神様とよばれ、油小路にあるので油天神山とよばれています。昔は、天神山とよばれていました。 油天神山のマークの由来 このマークは梅の花を表しています。 なぜ梅の花を表しているのかというと、天神様(菅原道真)が梅の花(紅白梅)すきだからです。 保ぞん会の方の思い 田辺さんと鳥井さんは、雨がふって山がぬれたり、協力し合うのも大変だそうです。それでもめげず、次の世代へとつなげたいという気持ちを持って続けていました。 私たちの思い 私たちは、保ぞん会の方の思いを聞いて、めげずに今までやっていたから、私たちも何事にもめげずにがんばりたいです。私たちはがんばる人がたくさんいる油天神山を守っていきたいです。 ・・・・こんなステキな子供たちを絶対に戦争には行かせたくないな・・・おっと今日も書いてしまった(;^^)ヘ.. 最後は、 乳隠し・日覆い屋根・鍬・人形・金運開運・復活山一番・ぼたん・ちまき 「郭巨山」のこだわり 祇園祭 祇園祭は日本三大祭の一つで、千年以上も続く歴史的なお祭りです。元々、えき病をしずめるために始まりました。七月一日~七月三十一日までのおよそ一ヶ月間、お祭りをします。戦争などのえいきょうを受け、何度も中断した祇園祭。それでも今日まで人々の心をみりょうしているのには訳があります。それは祇園祭を造りあげていった人々の「こだわり」です。中でも私たちが興味を持って調べた郭巨山の「こだわり」について紹介します。 今年の祇園祭 今年も前祭と後祭があり、三十三の山鉾が街を彩ります。みなさんも祇園祭を知りませんか? 調べたこと 中国の史話「二十四孝」の「郭巨釜堀」の故事にちなんで造られました。今年は山九番、山鉾で十四番です。1962年文部省、文化保護委員会より、重要民俗資料になりました。郭巨山だけ、乳隠しと日覆い屋根があります。乳隠しは胴掛を吊るす飾り板です。1963年から他の山が舁き山(人がかつぐ山のこと)をやめ、車輪をつけました。郭巨山は最後まで舁き山にこだわりましたが、1966年を最後に車輪をつけました。1788年の天明の大火では、町屋とくらを全焼し、前掛、胴掛、後掛だけが燃えず、御人形、御山、古文書などを消失しました。しかし、1789年に再建に取りかかりました。文献に初めて登場したのは応仁の乱後、1600年にくじ定め書の第十六番に記されています。ごふは母乳の出を守るお守りで、乳隠しに由来しています。 インタビューしたこと 保存会の平岡さんと小林さんに伺いました。お二人が保存会に関係しようと思ったのは、郭巨山の町内で生まれ、育ち、郭巨山の存在が当たり前だったからです。保存会に入って良かったことは、心が一つになったり、様々な人と出会ったり、親しくなったり、大きな祭りに関われることです。最後まで舁き山にこだわったのは、前の会長が山鉾連合会長で「昔からあったものを残そう」という思いを持たれ、「舁けるだけ舁こう」と最後までこだわりました。舁き山は16人で持ち上げていました。天明の大火の時に人形が焼けてしまいましたが、町内の人が節約したので3年間で完成しました。禁門の変は町内の人が協力し、大事なものを分たんして持ち運んだおかげで、人形は燃えませんでした。祇園祭を楽しめるのは、町内の人の協力のおかげです。私たちの代で終わってはいけないと思いました。 毎年同じ場所で郭巨や童子の人形を並べます。人形を置く場所には線があり、毎年同じ場所に置けるように工夫されています。 金運開運の山だからお金に困らないようにという願いがこめられいるこだわりのちまきでごはんが入っています。 ・・・そうか、あの郭巨山粽には、ごはんが入っているのか・・お勉強になります(*⌒▽⌒*) 各グループ、それぞれ特色があって面白かったでしょう。 小学生ならではの文章力も楽しいですよね。 もうこれで夏休みの宿題なし!でもいいと思うなぁ。 子供たち、ごくろうさまでした。