2014年10月8日水曜日

おはようさん 2014.10.8.

秋の写真といえば・・・私はコスモスと秋バラさんです。 コスモス畑には風がつきものです。 ちょっとの風でコスモスさんたちはゆらゆら&ゆらゆら・・・ じっとファインダーを覗いたまま、風が止まるのを待ちます。 写真用語で「風待ち」 どんなに強い風が吹いていても、不思議なことに一瞬、風がピタッと止む瞬間があります。 それをただジッと待ちます。 ファインダーの向こうでは、コスモスさんが飛び跳ねて踊っています。 それをじっと見つめています。 一曲踊り終わったその瞬間、すべてが止まります。 詰めていた息を吐きながら、静かにシャッターをおろします。 同時に風が吹き抜けて、コスモスさんが踊り始めます。 私はこの風が止む瞬間が大好きです。 天地自然と繋がったような気がします。 大宇宙が、お花の神さまが1枚だけ、撮らせてくれたように感じて、うれしくてしかたなくなります。 感謝の1枚 だから美が詰まっています。 風待ちって釣りと似ていますね。 浮きがピクッとひくのをジッと待っているだけ。 もちろん釣り上げる時の醍醐味もステキだけど、実はボッと釣り糸を垂れたまま、何を考えるでもなく過ごしている時間もまんざらではありません。 それは時に身を任せているというよりも、時から自由になって・・・文字通り「時を忘れ」ているとっても自由なひとときなのです。 時を忘れ、時から自由になっている間は、身体の細胞たちも、自律神経たちも、ホルモン分泌神経たちもリラックスできます。 成長しなくてもいい、がんばらなくてもいい、がまんしなくてもいい・・・まさに身体 中がのんびりお休みモードになります。 釣り糸を垂れたままボッとしてるのと、公園で寝転がっているのとは同じように見えますが、釣り糸を垂れるだけで、身体ののんびりお休みモードの入り方が違ってくるのです。 写真も同じです。 コスモス畑を「きれいやなぁ」と見て歩くだけでもリラックスできますが、ちょっと真剣に写真を撮ってあげようとカメラを向けていると、釣り糸効果が発揮されます。 そして、デジカメで シャカシャカ撮るよりも、「写るんデス」でいいからフィルムカメラで撮った方が釣り糸効果は断然発揮されますよ。 (デジカメ写真は交感神経を興奮させちゃいますからね) 前世物語  女将さんは京大の哲学科を出られた方でした。若い頃は自由奔放な生活を送り、エサレンやフィンドホーンで暮らしたこともあったそうですが、お母さんが亡くなられてからは、こうやってこの実家を継がれているのだそうです。過去生退行についてもしっかりと理解が出来ている方でしたので、話題が自然とそちらの方へと向かいました。私はお善哉で血糖値が上がったためなのか、とても心地よい睡魔に襲われました。まどろみの中で、先生のこの話だけがしっかりと記憶に残っていました。 「・・・また別の分け方をすれば、過去生退行はこういうふうにも取れます。一つは、何かの原因となっているエネルギーを開放すべき過去生退行です。これは恐怖や不安などの心の症状やアトピーや痛みなどの肉体的な症状の原因となった過去生へ戻り、その事件を再体験してエネルギーを開放することによって心身の症状を癒すというものです。このタイプでは過去生での事件を今の人生に思い出させるようなトリガー的な何気ない事件が起こっていますが、今の人生そのものが過去生と似ているとは言い切れません。ある人生のある事件で溜め込んでしまったネガティブなエネルギーが、別の人生で同じキーワードが揃った時に一気に噴出してくるのです。子供の場合に多いことですが、何故だか父が嫌い、母が嫌い、水が恐い、車が恐い等々が過去生に関連している時、その事件が過去生の中でのことであって、もう終わってしまっていること、今の人生とは関係ないことを知ることで過去生から開放され、症状が癒されます。  もう一つは、今、その人にとって必要な気づきを得るために最適な過去生を潜在意識が見せてくれるものです。この人生の目的や自分の使命、愛や許し、ある人との関係といった哲学的な命題へのヒントを得ようとするものです。この場合も、もちろん過去生へ戻り様々な事件を再体験していきますが、ある一つの事件でエネルギーを開放することよりも人生全体の流れを眺めることが大切なのです。そして過去生との対比において、今の人生とよく似ていたり、全く正反対だったりすることが多いようです。 人生のある地点までは全く重なっているけれど、ある事件以後は過去生は左で、今の人生は右に曲がっている、などということもよくあります。このように、ある過去生と今の人生を比較することによって、今の人生の目的やある人との関係に気づきが得られるのです。そして自分が生きてきた複数の人生を見比べてみることによって、愛や許しといった人間界で学ぶべき大きな命題に近づくことが出来るのです。  こういったタイプの過去生は、過去生の中でのエネルギーの開放よりも、過去生を見終わってからの気づきへのプロセスが重要なのです。でもそれは茨の道でもあります。なぜなら催眠状態では潜在意識と誘導しているガイドが患者さんをしっかりとガードしていますから、ある事件を再体験してネガティブなエネルギーを開放することは比較的容易なことなのです。しかし、大きな気づきを得ようとすると催眠から自ら完全に覚醒して、独りで再びこの世を歩き始めなければならないからです。自分の足だけが頼りの巡礼になるからです。いえ、同行二人。神さまが温かく見守っていて下さいますが、決して奇跡は起こしてくれません。この世では気づきを妨げるものが後から後から押し寄せてきます。それはまるで気づきを磨き上げる砂嵐のように襲いかかってきます。苦しさと恐怖のために、せっかくの気づきの種を捨て去ってしまう人々が大勢います。催眠のまま覚醒せずに神さまの懐に潜ったままの人たちもいます。依存症の人たちですね。  私はこのワークを実践的哲学だと思っています。ですから、例えその患者さんが気づきをすぐに得られなくとも静かに見守ることにしています。何年先、何十年先に気づきが訪れるかもしれませんから。もしこの人生で難しかったとしても、次の人生で気づきを得るための貴重な礎の人生なのかもしれませんから。長い目で見れば、無駄な出来事、無意味な人生などないのです。そして何より、ワークをしている私にとっても数々の気づきがやって来るのですから。毎日のワークが神さまの哲学の授業なのです」  翌朝、私は肌を切るような澄んだ空気に目覚めました。冬の訪れが間近に感じられます。先生は隣のお布団の中で大イビキをかいています。きっと夜遅くまで話し込んでいたのでしょう。私の枕元に女将さんからのお手紙と着替えが置かれていました。 「お着替えをご用意させていただきました。地階のお風呂もお使いいただけます。朝粥のご用意を致しておりますので、先生がお目覚めになられましたら、お知らせ下さいませ。 P.S. すてきな先生です ね・・・」 私の中に爽やかな嫉妬心が湧き出てきましたが、すぐにそれは女将さんへの感謝とすべての人たちへの深い愛に変わって拡がっていきました。先生のそばにいると、どんな感情も愛に変わってしまうのでしょうか?  私は先生の寝顔に近づきました。子供のような寝顔です。  先生の左のほっぺたに女将さんの微かなルージュが残っています。  私は女将さんが残しておいてくれた唇に、そっとキスしました。  少し離れて先生の目を見つめました。優しい寝顔です。  トントンという俎板まないたの音が聞こえてきます。  私はもう一度、唇を重ねました。