2014年10月4日土曜日

おはようさん 2014.10.4.

今日の午後は国立民族博物館のみんぱく友の会講演会に初めて参加してきました。 お題は、「特別展「イメージの力  国立民族学博物館コレクションにさぐる」関連 アート(美術)と人類学のあいだ―特別展「イメージの力」によせて―でした。 講師の先生のお話は、いわゆる「中の人」の企画&展示のコンセプトや苦労話の数々でした。 例えば・・・ 博物館に収納されれば「資料」となり、美術館に収納されれば「作品」になる。 英語のMuseumを日本語に訳す時に、「博物館」「美術館」の二訳が拡がって、以後、日本だけがその違いをどんどん明確化していった。 人は博物館に見に行く時と美術館に見に行く時とは、明らかにまったく異なったバイアス(呪縛)がかかっている。 博物館と美術館の垣根を越えたい。 みなさんの持っている固定観念を問い直してみて欲しい。 この「イメージの力」展は、先に東京の国立新美術館で開催されており、その時の会場写真を供覧していただけましたが、同じ展示物・展示構成でも、入れ物が異なると、受ける印象が大きく違ってくることに驚きました。 例えば、プロローグの仮面の部屋・・・世界中の仮面180余りの視線が一斉に降り注いできます。 (最下段の仮面は人の目の高さ 140cmに合わせてあるそうです) 東京では壁は白 みんぱくは黒です。 私はやっぱりみんぱくの黒壁の方が好きです。だって、妖しさ倍増だもん(;^^)ヘ.. もうひとつ・・・東京は巨大な平面会場での展示でしたが、みんぱくは階段を昇ったり降りたり・・・みんぱくは「イメージのワンダーランド」になったとのことでした。 東京での「イメージの力」展の案内は、「イメージの力」展の素晴らしさを左脳な方々にもより分かって頂けそうですし、今日の講演会の内容にとてもよく沿っていますので、コピペしておきますね。 人類の歴史は、イメージの歴史でした。イメージは文字に先行し、さらには言葉の源になったと考えられます。世界の本質や構造にかたちや色を与えて視覚化することは、人間に与えられた根源的な資質のひとつなのです。 イメージの創造とその享受のあり方に、人類共通の普遍性はあるのでしょうか。この壮大な問いをテーマに掲げた本展覧会では、世界のさまざまな地域で生み出された造形物を紹介します。展示されるのは、世界各地の資料を擁する国立民族学博物館の膨大なコレクションから選りすぐられた逸品です。同博物館と国立新美術館との共同企画である本展覧会は、イメージを地域や時代ごとに分類するのではなく、共通した造形性や効果、機能に着目して提示します。これは、造形物に対して私たちが持っている固定観念を問い直す試みでもあります。 国立新美術館の広大な展示室には、博物館でお馴染みの仮面や神像から、今活躍中の美術家の作品までが、美術館と博物館の垣根を超えて一堂に会します。儀礼に供されてきたイメージの圧倒的な生命力、文化交流から生まれたハイブリッドな造形の奥深さ、グローバル化した現代社会とともにあるイメージの活力を体感することによって、人類の文化に普遍的な「イメージの力」をご堪能ください。 みどころ 1. 美術館と博物館のコラボレーション 2007年に開館した国立新美術館は、近現代美術を中心にした展覧会の開催に努めてきました。一方、2014年に創設40周年を迎える国立民族学博物館は、世界各地の造形物や生活用具など、約34 万点を所蔵する世界最大級の民族学博物館です。まったく異なった2つの機関が共同で企画した本展覧会は、博物館の収蔵品がもっているアートとしての側面に着目し、これを美術館の展示室で展示しようという斬新な試みです。 2. イメージの根源を問う 国立新美術館は、人間が生み出した素晴らしい視覚芸術に対して、新たな見方を提示する展覧会の開催を目指しています。本展覧会は、世界のさまざまな地域とさまざまな時代を射程に入れて、人間とイメージとのダイナミックな関係に迫るものです。有史以前から人間は、色とかたちを駆使してイメージを生み出し、そこから新たな活力を得てきました。本展覧会は、そうしたイメージの力を壮大な規模で問いかけます。 3. 国立民族学博物館のコレクションを大規模に紹介 本展覧会では、大阪の国立民族学博物館のコレクションから、約600点にも及ぶ収蔵品を展示します。国立民族学博物館は、大学共同利用機関として文化人類学の研究を進める一方、世界の諸民族が生み出した造形物や生活用具を収集・公開してきました。関西で「みんぱく」として親しまれている同館のコレクションをこれほどの規模で紹介するのは、東京では今回が初めてです。本展覧会では、天井高8メートルにも及ぶ大きな展示室で、圧倒的な質と量を誇るみんぱくコレクションから選ばれた逸品の数々をご紹介します。 プロローグ――視線のありか 人間は、イメージを創造するとともに、自らが生み出したイメージから力を得て生きてきました。イメージの創造とその享受という、人間とイメージとのダイナミックな関係を問いかける本展覧会のプロローグでは、世界各地から集められた仮面で壁一面を覆いつくします。私たちは、強烈な眼力(めぢから)をもった色とりどりの仮面に四方から取り囲まれることにより、イメージに見られるという新鮮な感覚を覚えることになるでしょう。仮面の圧倒的な眼差しに晒されることで、私たちに迫り来るものとしてのイメージを体感することができます。 第1章 みえないもののイメージ 1-1: ひとをかたどる、神がみをかたどる 世界には、眼に見えないものを視覚化した造形物が数多く存在します。人間は、眼に見えないものにイメージを与え、それと関わることで、見えないものの力をコントロールしようとしてきたのです。神がみや精霊のイメージは、こうした人間の意思が込められた代表的な例でしょう。人びとは、自らの身体に似せて神がみのイメージを視覚化し、生きるための縁(よすが)としてきました。このセクションでは、人間が生み出した大いなる力のイメージに圧倒されることでしょう。 1-2: 時間をかたどる 地域や民族、宗教に固有の物語も、神がみや精霊同様に、眼に見えない領域に属しています。人びとは、生活を営む上で大きな意味を担っていた物語を、視覚的なイメージに留めようと努めてきました。それによって、物語は後世に伝えられていったのです。このセクションでは、仏陀の生涯を描いた仏伝図や曼荼羅、あるいはアボリジニの樹皮画など時間や物語をイメージに定着させる試みを世界各地に探ります。 第2章 イメージの力学 2-1: 光の力、色の力 光や色は、私たちの眼を引きつける強烈な力をもっています。たとえば鳥の羽による頭飾りや色とりどりのビーズで覆われた装身具が放つ光や色は、聖なるものとのつながりの表現として、あるいは、力や富の象徴として用いられてきました。また、邪悪なものを跳ね返すために、衣服や日用品に鏡や金属を貼り付ける行為は、世界各地で確認されています。このセクションでは、光や色が与える視覚的効果に人びとが見出そうとしてきたものを検証します。 2-2: 高みとつながる イメージには、私たちの視線をある一定の方向へ導く働きもあります。墓標などの高さを強調した造形物は、高みの世界、すなわち、他界へと繋がる回路を想起させます。死者の霊を地上から他界へと送りだしたり、神がみが地上に降り立ったりする道筋としてのイメージは、さまざまな地域と文化に普遍的に確認することができます。世界各地で集められた墓標や木彫などが林立する空間は、はるか上方の世界と、今ここに立つ私たちとのつながりを喚起することでしょう。 第3章 イメージとたわむれる 人間は、ある特定の目的のためにかたちを作り出すだけでなく、イメージを生み出し、それを享受することに歓びを感じてきました。コンゴ民主共和国の民族クバの人びとの女性用前掛け布には、多様なアップリケが施されています。この前掛け布には、穴をふさぐというアップリケの実利的な目的を超えて、作り手の創意工夫の跡がはっきりと示されています。このセクションでは、クバの女性用前掛け布からイースターエッグまで、作り手がイメージを生み出すことに歓びや楽しみを見出していることがうかがえる世界各地の作例を取り上げます。 第4章 イメージの翻訳 4-1: ハイブリッドな造形 人の移動や交流によって、かつて出会うことのなかったもの同士が交わり、新たなイメージが生みだされるということは、世界各地で確認されます。たとえば、英国国旗のイメージを「強さ」の象徴と解釈したガーナの民族ファンティの人びとは、それを自らの軍旗に取り入れています。本セクションでは、文化の交流の結果生み出されるハイブリッド(異種混合的)な造形に着眼し、外の世界のイメージを取り込むことで、新たな表現が生み出されていく様相を確認します。 4-2: 消費されるイメージ イメージは、通信や物流、生活様式の変化と深く関わっています。今日、消費の対象としてのイメージは、世界を均一に覆う勢いで拡散しています。セネガルやベトナムで観光客用のお土産として売られているブリキやアルミニウムの缶を利用した玩具は、世界中で商標が知られた飲み物の空き缶を用いて制作されています。これは、大量消費社会を背景としたポップアートを想起させます。このセクションでは、イメージが、めまぐるしく動くグローバル社会の中で消費されつつ、新たな姿と機能を獲得していくさまに迫ります。 エピローグ――見出されたイメージ 人間が作り出したイメージは、必ずしも、地域や文化を超えて、同じように受け止められ、解釈されるわけではありません。それは、誤解され転用されるだけでなく、時には、まったく新たな意味や価値を与えられ、その存在を大きく変えられることもあります。このセクションでは、あらゆるものを「作品」として機能させる美術館という場を利用して、博物館に収められた梯子やザルといった実用的な資料を、現代美術のインスタレーションの手法で展示します。それは、イメージの受容がきわめて主観的な行為であることを示すと同時に、イメージというものが常に新たな文脈に対して開かれていることに気づかせてくれるでしょう。展覧会のエピローグとしての本セクションは、美術館という場の機能と意味を問いかけ、イメージと私たちの関係をもう一度見つめなおします。 改めて読み直してみると、今日の講演会のお話そのもののレジメです。すばらしい! さて・・・今日のお話の中に「スピリチュアル系」な話題は皆無でした。 (かなり期待してたんですけどネ) 民族学、文化人類学って、てっきりスピリチュアル系だと思っていたけど・・・完全無欠な左脳学問でした(;^^)ヘ.. でもね、それこそ、そこに展示してあるものから何を感じ取り、どう解釈するのかは、自分自身なのだから・・・自分がスピリチュアル系なら、それなりの波動とシンクロして、目の前の「お宝」が輝き始めるのを楽しんだらいいのです。 仮面の部屋にジッとたたずんでいると、私は時空間を超越して、仮面たちの向こうに居る人たちと繋がることができます。 お宝たちの向こうから、祈りの声が聞こえてきます(注:幻聴じゃぁないよ!) まるで過去生に降りたかのように、お宝たちの向こうの匂いも喧噪も風も・・・人々のエネルギーを感じてしまいます。 まさに「ワンダーランド」です。 そしてお宝展示の「おしらさま」の前でフッと気づきました。 アーユルヴェーダの脈診と似ている・・・ 指先で触れているのは脈の拍動です。 そこまでが中医学や漢方の脈診です。 アーユルヴェーダの脈診では、脈の中の波動にシンクロしています。 生まれてから今までのすべての生体情報は波動となって血の中に保存されています。 だから、血にシンクロすれば、生まれてから今までの生体記録の見たいところを引き出してこれるのです。 脈の中の氣は、そんな血が放つ放射線のようなものです。 DNAと血は生きている限り、氣を放っています。 だから、氣は波動エネルギーとして用いることができ、今の生体情報は引き出せますが、詳しい生体 記録を知りたければやはり血にシンクロしなくてはなりません。 インドでは(もっと言えば、アトランティスでは)この血へのシンクロが当たり前に出来ていました。 それが中国に伝わると、氣へのアプローチが主流になってしまったわけです。 このことは、またいつか詳しく書きましょう・・・乞うご期待(*^^)v 前世物語  私は先生の背中に身体を押しつけました。背中のプロテクターが先生の心のように感じられました。 「愛とは貴くて純粋無垢です。愛には種類や形がたくさんあって、愛してばかり、愛を受け取ってばかりではつかみ取れるものではありません。愛されないという体験があるからこそ、愛を受けた時の気持ちがよくわかるのです。この前のワークでこのように言われましたが、これはそのまま受け入れることが出来る言葉だと思いました。  私は正直言って、大きな愛されない体験はなかったのですが、先生と再会して色々な愛の形を知ることが出来ました。先生は私に愛されなかった時の気持ちと愛を受け入れられた時の気持ちを鏡のように何一つ隠すことなく教えてくれたからです。私は先生とひとつの魂だったんだろうな、と思っています。スピリチュアルに二人の人生を眺めてみると、DNAのワトソン・モデルのようにしっかりと結びついています。二人で共に愛を学んでいるのです。  そして、私は先生の心の強さを尊敬しています。先生は愛されない世界にいても、心を開いて誰かを愛し続けてきました。もちろん先生は親や兄弟、友達に愛され続けてきたのですが、ワークに来られる患者さんを見ていると、そんな身近な愛に気づかない人がとても多いのに驚きました。いえ、これは愛されない人だけの課題ではありません。逆に愛されている人の方がこの課題に気づけないかもしれません。私だって夫を亡くしてはじめて、そんな身近な愛に気づいたのですから。先生は愛のない暗黒の世界でも愛を失わなかったのです。報われなくても、ただ愛し続けることが大切なのです。  人間は何のために生きているのですか? という問いに光は、『人を愛するためです』と答えました。愛されない時に愛さなければならないのです。それが生きる意味なのですね」 「そんなに持ち上げてもらったら、何だか湯豆腐だけでは申し訳ないなぁ」 「そんなこと、ないわよ。先生のラブストーリーは愛されない病、愛せない病の人たちの心を開くことが出来ると思うわ」 「そうかな? まぁ、神さまが書いたシナリオ通りに二人の人生が進んでいるからね、きっと誰かの役に立つんだろうね」  湯豆腐と精進料理が私たちの心を温かく癒してくれました。楽しく笑いあっている二人に中居さんが尋ねてくれました。 「朝粥のご用意をいたしましょうか?」  私と先生は顔を見合わせてから、ありがとうの笑顔で答えました。 「今日は私たち、一見さんですから、またの機会にさせていただきます。今度は雪見酒がいいですね」  私は心を開いて感謝の光をいっぱい込めて彼女に送りました。彼女の頬がパッと明るくなりました。 「私共も一見さんに朝粥をお薦めすることはないのですが、お客さまはとても良い気を放たれておられますので、ここの女将が、ぜひ朝粥もお召し上がりになっていただきたい、と申しております」  先生は大きく愛と書いてある医院の絵はがきを取り出して、本日はご好意を辞退させていただきたい旨を女将さん宛てに認したため、届けてもらいました。女将さんから、ごゆっくりどうぞ、という言葉と乾湯葉のお土産が届きました。