2014年10月15日水曜日

おはようさん 2014.10.14.

大阪直撃の台風の影響で、今日の外来は肩こり・腰痛・ふらつきの患者さんが多かったように思います。 台風が運んできた湿濁が元々あった悪血と相まって、肩こり・腰痛・ふらつきの各穴にゴルフボール大の黒くて冷たくて固い邪気が根づこうとしていました。 はい! もちろん刺絡でございます。 初診の方もお話をよく聞いてみると、かなり昔から悩まされていた&いろいろ治療してみたけどダメだった・・・とのことで、「ちょっと痛いですよ」と念押してもスンナリと受け入れて下さいました。 素直な人は必ず治る! これがマイ・モットーです。 今日の難病の方々もきっと楽になっていきますよ。 午後は在宅往診へ。 重度の老年性精神病の一人暮らしのお年寄りたちがたくさん入所されている施設へ向かいます。 2ヶ月前までは介護スタッフが悲鳴を上げる毎日でしたが、在宅往診し始めて、最近では介護がとても楽になった、と喜んでいただいています。 もちろん薬は最小限・・・これもマイ・モットーですね。 向精神薬を使う際でも、漢方鍼灸的な体表観察はとても役立っています。 重度の老年性精神病の方々は、あまりしゃべらない&しゃべれない方が多いのですが、体表観察すれば、身体とこころの証の変化がわかります。 薬がよく効いているのか、まだ足りないのか、副作用は出ていないか・・・ いろいろなことが体表観察でわかります。 どこの施設にもお抱えの内科医さんはおられますので、私は何でも科(何でも可)の便利屋ドクターとして在宅往診に廻っています。 例えば、この老年性精神病の方々の施設には精神科(心療内科)として診ています。 次の施設では整形外科だし、皮膚科のところ、内科のところ・・・たまには眼科や耳鼻科も・・・ 雨の日のブルーな往診では・・・こんなんでええのかいな? これで満足なん? 流されてるだけちゃうの? と自問自答することもあります。 そんな時には、これも千日回向や!と吹っ切ることにしています。 別に功徳や悟りを求めているわけではありませんが、今、目の前にあること、特にお仕事こそ天職であり、使命であり、「今、やるべきこと」だと知っているからです。 心療内科の患者さんたちを診ていて思うのは、これができていないこと・・・です。 目の前にあることをやらずに、ブツブツブツブツ言っている。 できない理由をどんどん創っては、それを現実化しようとしている。 なんでやらないの?  やればできるよ! とは口に出しませんが、この想いを飲み込む度にとても哀しくなります。 どんな人でも壁にぶつかった時、その壁は必ず乗り越えられる or 回り道して抜け出せる壁です。 お薬をたくさん出すと、この壁にぶつかっていく力が萎えてしまいます。 だから・・・まずは最小限のお薬で背中を押してあげる。 何度も背中を押してあげる。 それでも、壁の前でブツブツ念仏を唱え続ける人たちには・・・普通の心療内科のようにたっぷり&強いお薬で楽になっていただく・・・ これでいいのかな? あきらめていいのかな? そんな後悔懺悔をひとつひとつ拾い上げながらの千日回向の診療日々なのです。 前世物語  過去生ワークの中でひとつの人生を終えると、その人の意識は肉体を離れて宙に浮いています。下には今まで入っていた肉体が死体となって見えています。このワークを受けられる方は、この魂に戻った状況を素直に受け入れることが出来ます。死の直後、意識があっても決して驚かないで、冷静に、喜びを持って元の魂の姿に戻っていけるのです。死の直後から魂に与えられた全ての能力を使いこなす事が出来るのです。時空間を自由に行き来することなどは簡単です。そして、魂の世界には人間界を一方通行に動かしている時間軸は存在しません。ですからこの症例のように、夫は死ぬと同時に妻の許へとやって来て、妻とコンタクトしてお話が出来たのです。また同時に娘の所へも行けました。人間界の常識ではこの「同時」は不思議なことですが、魂の世界では当り前の「同時」なのです。  死の直後の世界をこのように想定しておけば、本当に死を迎えた際に魂の世界が実在していても、それほど慌てることもなく心素直に死を受け入れて、すぐに魂の能力をフル活用することが出来ます。よく世間で言われているように、唯物論で死んだら何も残らないのなら、このような想定をしていたことは確かに無駄にはなりますが、死の後に、私は無駄なことをしてきてしまった、という後悔をすることさえ出来ないのですし、これはそれほど人生の重荷になるような想定でもありませんから、死後の魂の存続を信じることはリスキーなことではないと思います。  それよりもこの症例の妻のように、死を自分が生きてきた人生の集大成の場として堂々と迎えることが出来る方が、生きる意味を知る上で重要なことなのではないでしょうか。この妻は、例え唯物論が正しくて死後の魂の世界がなかったとしても、銃弾が身体を切り裂いていく中で永遠の至福感に満たされていたことでしょう。彼女の人生はとても良い人生だったと言えるでしょう。そして、彼女が銃殺の場でなぜ威風堂々を貫けたか、と言えば、それは彼女が死後の魂の世界を信じていたから、に他ならないのです。もし彼女が死後の魂の世界を信じていなかったならば、彼女は娘と夫の身を案じて自らの命に執着し、軍人に反抗することなどせず、仲間を見殺しにしていたかもしれません。銃殺の場でも泣き叫び、恨みと憎しみをまき散らして死んだかもしれません。彼女は憎悪と悲哀の中に溺れ死んだかもしれないのです。そんな彼女の人生は良い人生だったとは言えないでしょう。  このようにこの症例を見てみると、唯物論のみなさんも死後の魂の世界を仮想して生きている方が、いざ、死を迎えた時に威風堂々と至福感に満ちた死で人生を締めくくることが出来るのではないでしょうか。また、死後の魂の世界を信じているみなさんは、自分が死んだ時に心に余裕がありますので、親しかった人たちやその人生で強く関係を持った人たちの許を訪れて、心の中に愛と許しを持って話しかけることも出来るのです。