2014年10月7日火曜日

おはようさん 2014.10.6.

台風の日はお年寄りたちが自宅待機で来院されないので、今日はゆったりとした一日になりました。 こうなることがわかっていたので、先日、みんぱくで買ってきた「イメージの力展」のとても立派なパンフ本をじっくりと読ませていただきました。 書いてあることはとっても難しくて・・・美味しいお料理を徹底的に化学分析器械に晒して全部デジタルデーター化して学会発表してる感じかな・・・美味しい・きれい・ステキでええじゃん? と思ってしまいました ゴメンナサイ。 さて・・・展示されている「お宝もの」の写真がいっぱい載っているのですが、どれも・・・死んでる・・・そう、会場で生のお宝たちと触れ合いながら、ファインダー越しに見えたお宝たちの生き生きとした姿は、パンフのどこにも見当たりませんでした。 もちろん、真っ正面から、左右の間接照明で陰影を消したパンフ用写真ですから、仕方ないのかもしれません。 でも・・・これを撮った写真家さん(きっと有名なプロだと思いますが)には、みんぱくのお宝たちの息吹が感じられなかったのだろうなぁと思います。 ただ、いつもの仕事モードで、いつものように被写体を撮っただけ・・・それはそれで良いのですが、このパンフの中にも書いてありました。 お宝たちはそれが生活の中で生まれ、使われている時が実体であり、その生活から切り離されて博物館に収納されてしまうと、それはフェイクになってしまう。これは絵画美術もしかり。イメージを描き出した時点でそれはフェイクに過ぎない。 写真はそのフェイクを写し撮るのだから、更にフェイクになるんだなぁ、と思いました。 フェイクのフェイクだから、いつまでたっても写真は絵画の後塵を拝する立場から抜け出せないのだねって。 世の中のふつうの人たちだって、写真家さんより絵描きさんの方が偉いと思ってるでしょう? でもね・・・お宝ものを目の前にして、それを描き撮るのも、写し撮るもの、同じ感性が必要なのですよ。 お宝たちの波動や氣とどこまでシンクロできるか、語り合えるかで、お宝たちの持つ本物の美の見え方が違ってきます。 写真だってピカソにもゴッホにもマチスにも棟方志功にも・・・なれるのです。 ピカソは晩年に言ったそうです。 「やっと5歳のこどもと同じ絵が描けるようになった」 5歳というのはとても微妙な年齢です。 前世を思い出して語ってくれるのも5歳頃がピークです。 目に見えないいろいろな妖精たちとお話できるのもこの頃です。 5歳のこどもの感性になると、きっとみんぱくのお宝たちは大歓迎してくれて、しゃべりまくり・歌いまくり・踊りまくってくれるでしょう。 そして5歳のこどもは、楽しければシャッターを押し、面白ければシャッターを押し、きれいだとシャッターを押し・・・構図は自分が見てるまま、そのままで何も考えずに撮るでしょう。 その時、お宝たちの生き生きとした息吹も、笑い声も、美しさもフィルム上に100%撮し込まれるのだと思います。 いまだかって、そんな 画家も写真家もこの世に現れてない・・・と思います。 古い世界ではムリですが、光の世界ではきっと、誰もがそんな画家であり、写真家なんだろうと思います。 その中で、ひとりひとりの個性がにじみ出ていて・・・まるで野に咲くさまざまな彩りの花々のように、どれもが美しく、すべてがひとつの美となっていることでしょう。 そう、それは光の世界の住人 ひとりひとりにも、光の世界そのものにも当てはまることでしたね。 そんな光の世界が来ることを、ジョンレノンのように待ちわびています。 前世物語  この日本酒を見てごらん。お米を研ぎ澄まして大吟醸となっていくんだけど、これは魂の世界での愛の学びと同じだと言えるだろう。ホラ、この澄み切ったお酒を見てごらん、目を閉じて心の目で見つめるんだよ。雪解けの水音、田植えの雨音、ゲンゴロウやオタマジャクシの遊び声、青田を吹き抜ける夏風の声、お日さまの笑い声、コンバインのエンジン音と育ててくれた人たちの喜びの声・・・田んぼの香りが染み込んでいるだろう。これが人間界で学ぶべき愛なんだよ。とても土臭い愛だね。  人間界で学ぶ愛とは、すべての中に愛がある、ということなんだ。その愛は魂の世界で燦然と輝いている光の愛と本質的には同じ愛なんだよ。人間界のすべての物質、想い、エネルギーの本質は神々の愛と同じなんだ。憎悪や悲しみのエネルギーの本質は私たちが愛と呼んでいるエネルギーの一面でもあるわけだね」  私は薩摩切子を万華鏡のように玩もてあそびながら尋ねました。 「自然界の動植物や鉱物、それらが織りなす様々な美のすべては愛で出来ている、ということはわかります。でも、憎悪や悲しみなどのネガティブなエネルギーまでもが至高の愛だと言われても、なかなか理解できないのではないでしょうか?」 「美子さん、愛の反対は何だろうね? 憎悪や悲しみかな?」  切子が私の手の中でお辞儀しました。 「この人間界は二元性の世界だよね。すると愛と憎悪、悲しみがペアーなわけだ。では、もっと昔々の一元性の世界だった頃、そう魂の世界がそのまま物質的な世界として具現化されていた時代はどうだったのだろうね。愛と憎悪、悲しみを一元化すると何になるのかな?」  もう投了です。私は切子がキラキラ輝くのを見つめながら言いました。 「神々の黄金の時代、すべては愛で満たされていたのですね。神々は憎悪も悲しみも嫉妬も自由に使いこなしていたのです。神々は知っていました、すべてが愛で出来ていることを、愛の本質を知れば世界のすべてを創造することが出来ることを、何人でも神々になれることを」  先生は頷いて続けてくれました。 「そして神々は人間を次のステップに導き入れたんだ。二元性の世界だよ。魂を肉体と心の中に押し込み、魂を磨き上げるだけではなく、愛がすべての中に見出せることに気づくように仕向けたんだ。一元性の愛を大いなる愛と呼べば、この二元性の世界では大いなる愛の光の当たる部分を愛と呼び、闇のネガティブな部分を憎悪、悲しみ、嫉妬などと呼ぶんだね。ネガティブな闇の部分は暗黒の鏡のように人間の心の闇の部分を映し出しているけど、そこに愛の光を当てる勇気さえあれば、そんな深い闇の底で愛が湯船の栓のようにはまり込んでいることに気づけるんだよ。そう、あとは・・・栓を抜くだけなんだ。貯め込んでいたネガティブなエネルギーは大いなる愛に向かって還っていくからね。すべての愛がひとつに戻る瞬間だよ。きっと神々は美しいスモークを焚いてくれるよ。天使のドラムが鳴り響く中・・・神々しいスモークの中から愛の二元性を統合しえた肉体と心をもつものが進み出て来るんだよ。神々の創造した人間が神々の手から自由になる瞬間なんだよ」 「先生、そんなお風呂掃除みたいなことはどうやったら出来るのでしょうね?」