2014年10月16日木曜日
おはようさん 2014.10.15.
大型バイクに乗っていて思うことがあります。
原付バイクや125ccクラス(小型限定)のバイクに乗っている人たちって、怖いもの知らずです。
自動車教習所で中型バイクの講習の際に言われた「やってはいけないこと」=とっても危ないこと を全部、目の前でやってくれます。
まぁ 教習所で教えてくれない? から仕方ないのかもしれませんが。
大型バイク免許(昔は限定解除って呼んでたね)を取る際、「大型バイクは他のバイクの模範となる運転とマナーを心がけてください」と教官さんに言われました。
昔々の限定解除試験は教習所では受けられず、直接、警察の免許証センターに出向いて、実地試験を受けなければなりませんでした。
その試験がとても難しい・・・50回目に通れば上出来!なんて言われていました。
だから、大型バイク乗りさんは若いライダーの羨望の的でした。
そんな暗黒時代を知っているからでしょうね・・・今でもちょっと胸を張って乗っています。
大型バイクに乗ってる他のライダーさんたちを見ても、やっぱり胸張ってるように感じますよ。
私がバイク免許を取ったのは13年前。
最初の数年はHONDA CBR954RR Fire Bladeというスーパースポーツバイクに乗ってました。
40代半ばにして、鈴鹿や岡山のサーキットを走ったり、全日本のバイクレースを見に行ったりもしました。
サーキットを一度でも走ると、町中をブンブン言わせて暴走するのが如何にカッコ悪いか!が分かっちゃいます。
原付や小型バイクでブンブン走ってる君たち!
車の間をすり抜けていく君たちも!
とってもカッコ悪いぜ!
でも、私も 大型バイクの免許を取って、実際に走っているから、それがカッコ悪い!ってわかるのです。
バイクに乗っていなかったら・・・わからなかったでしょう。
もしかしたら、わからないまま、ダメだ、嫌いだ、悪いことだ!って決めてかかっていたかもしれません。
やってみたから、本当にわかることって、実はこの世の中にいっぱいありますよね。
車の運転だって同じです。
車だけしか運転していなかったら、バイクの気持ちは分かりません。
渋滞してるのに左側を空けてくれない一台の車のために、バイクも立ち往生・・・よくあります。
こういうドライバーは間違いなく「空気が読めない」「まわりが見えていない」人ですね。
土日祝日はウインカーを出さないで急に右左折する車も多いです。
これは女性ドライバーが多い!
直感力も共感力もダメな人です。
車の免許なしでバイクだけ乗ってる人も、車の気持ちがわかりません。
流れている車列の間をすり抜けていくバイク・・・アクション映画じゃないんだぜ!
左側を走らない原付バイク・・・後ろの車はイライラでムリな追い越しを招いちゃう
一方通行 を逆走する原付バイク・・・自転車感覚?
知らないことはわからないのです。
無知の恐ろしさ、愚かさをソクラテスが嘆いていますが、今も昔もその通りです。
男と女の関係も同じですね。
今生は男だから、女の気持ちはわからない。
今生は女だから、男なんてさっぱりわからない。
なんだか 車 vs バイク のいがみ合いと似ていませんか?
やっぱり両方をやってみないと、男と女の間の深くて暗い川に金門橋を架けることはできません。
こればかりはアダム徳永さんだってムリでしょう・・・連絡船くらいかな。
過去生を見る、それも異性だった過去生を何度も見ていると、次第に異性の気持ちが分かってきます。
異性ってこんなもの!と諦めるのではなく、
異性ってこうなんだぁ・・・大変やなぁ かわいいなぁ と優しく、愛おしく、その気持ちを抱擁することができるようになります。
なぜ神さまはこの世に男と女を創ったのか?
それはね、みんなが優しくなるためだと思うのです。
人に優しく、自分(のこころにも、身体にも)にも優しく。
優しさは愛の肥料です。
愛がすくすくと育っていきます。
美しい愛の花が咲き、美味しい愛の果実が実ります。
この星を愛の星にしたいから、
神さまは男と女を創ったのですね。
前世物語
先生は、あるゼミナールでこの症例を使って、次のようなお話をされました。
「人間は必ず死を迎えます。生と死はひとつなのです。お釈迦さまは生老病死で悩んだ末に成道しました。しかし、肉体は生滅するが魂は生き続けることを知れば、死の苦を開放することが出来ます。死の苦を手放し、苦を与え続けていた死を自ら祝福することすら出来るのです。死と生はひとつですから、死が苦から開放されれば生も苦から開放されます。人間の人生で生と死が開放されると、その間に挟まっていた老と病を苦に留め置くものはもはやありません。苦もまた開放されるのです。
肉体を持った人間とその本質である魂の関係が今、過去生退行という手法によって明らかにされつつあります。魂の世界を知ることによって、一段高いところから人間界全体を見ることが出来ます。人間界を岡目八目で見ることが出来るのです。すると、人間界で生きる意味が自ずとわかってくるものなのです。自分が人間界のどこでもがき苦しんでいるのかが見えてきますから、今回の人生の目的を自ら思い出すことが出来るのです。このようにワイドに考えてみると、過去生という概念自体が『今』の人生哲学とゲシュタルトを形成していることがわかります。そして、この過去生というゲシュタルトが多くの宗教に何らかのインパクトを与える可能性があります。宗教哲学上の新世紀のモノリスとなるのです」
生徒がお決まりの質問をしてくれました。
「でも魂が永遠に続くのだから、『この人生は失敗しちゃったから、もういいや』、『この人生は辛すぎるから、早く次に行こう』と、まるでゲームのリセットボタンを押すように簡単に自殺したり、いい加減に生きてしまうことにならないのでしょうか?」
先生は正面から受け止めて答えました。
「武士道と云うは死ぬ事と見付たり、なのですよ。死と向き合って、死の全てを受け入れ、死神さえも愛して許すのです。真剣勝負の場では死を意識した途端に斬り殺されます。相手の殺気も刃の冷たさも死を手放した者を捉えることは出来ません。死を手放せたからこそ、生きられるのです。生老病死を手放すと、『今』を生き抜くことだけしか出来ません。『今』のこの一瞬を生き尽くすようになります。このように『今』を生きている者には『今』以外はありません。未来も過去もないのです。ですから過去をはかなみ、未来を憂いて、自殺したり自堕落な生活に落ちることはないのです。『今』を生きるとはそれほど研ぎ澄まされた精神力が必要になりますが、外面的には人生を楽しむ達人に見えることでしょう。能天気なほど楽しいことが大好きな人なのです。