2014年5月18日日曜日

おはようさん 2014.5.17.

今日の土曜外来はとってもスムーズに流れて、お昼過ぎには終了! 午後から、美輪明宏さんのエディット・ピアフ物語を観てきました。 美輪明宏さんと言えばシャンソン。ピアフをどのように聞かせてくれるのか、興味津々&ワクワクがいっぱいでした。 大竹しのぶさんのピアフ物語も以前、観ました。 いつものことながら大竹しのぶさんの演技力に酔いしれました。 驚いたのは、しのぶさんの歌唱力です。 鳥肌が立つくらい痺れるピアフでした。 さぁ 美輪明宏さんと大竹しのぶさんの脳内対バン! 結果は? ・・・ 今日もカーテンコールでは会場全体がスタンディングオベーションでした。 ただ、私の感想は ☆ 星ひとつ(もちろん私は立ちませんでした←自分に正直でありたいので流されません。美輪明宏さんファンの皆さん、ごめんなさい) 評価は良い・悪いじゃなくて、感性の相性の問題ですから・・・もう一度、ごめんなさいね。 (ちなみに大竹しのぶさんのピアフは満点の☆☆☆ 星みっつでした) どこが響かないんだろう? と一幕目から考えてました。。。 大竹しのぶさんは I'll be Piaf 美輪明宏さんは I am Piaf 二幕目で思いました。 一生懸命さ と 余裕  そして、これは・・・ お前は神に近づきたいのか? それとも、神になりたいのか? という究極の問いかけでもあります。 神さまになってしまえば、余裕です。 神さまに近づこうとすれば、一生懸命に努力しなきゃいけません。 これは誰にでも当てはめることができます。 例えば、鍼灸の神さま・・・ 鍼灸の神さまに近づこうと日夜鍛錬研鑽することは一生懸命です。 鍼灸の神になったと思えれば、余裕です。その余裕が思わぬ力を発揮してくれます。 蓮風先生は私にとっても、北辰会の鍼灸師さんたちにとっても鍼灸の神さまです。 でも、蓮風先生ご自身は更に鍼灸を極めようと一生懸命に努力されています。 神さまが一生懸命に努力されるので、人智を越えた氣が湧き出てくるのは当然ですね。 ピアフの人生は・・・客観的に見ればボロボロです。 でも、彼女にはいつも歌がありました。 天性の歌の才能です。 人生につまづく度に、死が間近に迫ってくる度に、彼女は歌に救われました。 生きている(生かされている)ということは、私の歌を必要としている人たちがいるってこと これも誰にでも当てはまることですね。 どん底に落ちても、最悪最低な時でも、生きている(天に生かされている)ということは、何かの使命が残っているということです。 だから、まだまだ大丈夫だということです。 神さまは見放していない。だからがんばれ!ということです。 でも自分には歌もない、才能もない、何もない・・・いえ、気づいていないだけです。 宇宙の法則のひとつに、価値のないものは存在しない というのがあります。 何らかの価値があるからこそ、今、ここに存在している(生きている)のです。 どん底、最悪最低な状況は、その価値に気づくためのチャンスです。 自分の価値に気づけば、新たな道が開けているのが見えてきます。 病気も同じ。 例え末期癌であっても、そんな今の自分にも価値があるし、使命があるのです。 その使命を果たせば、神さまから明日の死を賜るかもしれません。 価値に気づかず、使命も果たさずのままでも明日の死がやって来ます。 同じ死だけど・・・まったく違う死です。 天命を果たして、生まれてきた意味を全うして賜る死をイメージしてみてください。 天晴れな気分 充実感でいっぱい 笑顔がこぼれてくる・・・そんな死です。 何もできなかった、しなかった死は、不安・恐怖・悲しみ・・・に飲み込まれてしまう死です。 天晴れ&笑顔な死を迎えると、輪廻転生を超越できます・・・今生の懺悔も来世への期待も極楽往生も意識に上がってきませんから。 いろいろと考えさせてくれたピアフ物語でした。 前世物語 『あなたの人生の計画は誰が作りましたか?』と問うとほとんどの症例で『私が計画しました』と答えます。自分の人生計画を練っている時に罪を犯しやすい設定にすれば、実際にその人生で予定通りの罪を犯すことでしょう。そしてその罪から多くを学び、津波のように自らに押し返してくる罪の波紋を実体験できるのです。もし罪を犯さない設定にして計画すれば、罪を犯すことなど考えられない人生を歩むことでしょう。罪など犯す人のいない世界をパラダイスだとすれば、その住人は罪の実地練習から学ぶことを卒業した人たちばかりなのかもしれません。私たちのレベルから見れば、もう罪を具現化しなくてもシュミレーションだけで学べるレベルの人たちだと言えますし、魂のレベルから見れば肉体を持ちながら心の窓はいつも全開で光に満ちている人たちが集うところなのです。  そう考えていくと、私たちのこの世界が善悪入り乱れ絶えることなく罪が生みだされ続けているのは、罪からたくさんの学びを得るためなのです。私たちは各々が自分の人生計画を練っている時に、罪の犯しやすさとその罪の内容について自由に選べます。  例えば罪の犯しやすさが軽度の1から重度の一〇までの目盛りがあるとすれば、罪の犯しやすさ9を選べば世の中が乱れきった戦国時代の盗賊の子供はどうかな・・・と神様に薦められるのかもしれません。同じように2を選べば、今のような平和な時代の平和な国の普通の家庭の子供を薦められるかもしれません。  このような目盛りは罪の犯しやすさだけではなく、罪の深さにもあるかもしれません。罪の深さの重度9を選べば戦国時代の将軍になって敵国の子女を虐殺する人生を薦められるかもしれませんし、軽度1を選べは些細な嘘で本当は誰も傷つけていないのに自分をずっと責め続けてしまうような人生を薦められるかもしれません。もっとも魂のレベルでは罪の深さはあまり意味のないことかもしれません。その罪から何を学んだか、どんな気づきを得たか、が大切であって、罪の深さはその学び、気づきのための単なる手段でしかないのですから。  このようにこの世に生きる人々は罪から多くの学びを得るために、すべてが罪の犯しやすさと罪の深さを人生計画の中に練り込んで生まれてくるのです。人生計画の中にすでに罪が練り込まれているという点では、この世の人間の人生は性悪説です。しかし、もし罪を人生に練り込まなかったら罪から自由だと考えると、人間の本質は性善説だと言えます。性善説は魂の本質であり、性悪説は人間の宿罪だとも言えます。『人は生まれながらに原罪を負っている』のは正しいのです。ただなぜ負っているのかと言えば、罪から学ぶためなのです。  これについてこのワークでは、『すべての魂は修行をしようとして生まれて来るが、その方法をあやまる魂はいる』が、それでも『悪人の道を選んだというだけ』であって『どんな魂でも悪人の道を選んでしまう可能性はある』と言われました。すべての人間が悪人の道を選んでしまう可能性があるというのは原罪論そのものだと言えます。  人間は人生の目的、つまりこの人生で学ぶべきことを抱いて生まれてきます。例え休養の人生でも『楽しむこと』等のなにがしかの目的があります。『すべての魂は修行をしようとして生まれて来る』とはこのことを示しています。もし罪の犯しやすさと深さの目盛りを共に1にしておいても、罪から完全に開放されているわけではないのです。だから・・」  突然、先生が私をさえぎって言いました。