2015年3月6日金曜日

おはようさん 2015.3.5.

今日は心労がほどけて、ホッとしながらもボッーとしたまま目覚めました。 夕方、蓮風先生にねぎらいの言葉をかけていただき、これで疲れもとれるよ、と後溪(SI3)に鍼をしていただきました。置鍼の40分間、深い深い眠りに落ちて・・・鍼はよく効きますね。 今日は午後から藤本漢祥院近くの松柏美術館へ行きました。 あまり人の来ない私のシークレットな癒やしスポットです・・・が、なぜか今日は人がいっぱいでした。 この時期は、50歳までの新人?日本画作家さんたちの公募 花鳥風月展です。 もう西洋絵画でも中国絵画でも、花鳥風月を描くことは廃れてしまったそうです。 だからこそ、一木一草に神が宿る 日本画の花鳥風月を後世へ残したい、という公募展です。 入選作品、優秀作品、大賞作品と順にじっくりと味わいながら見ていきましたが、なるほど、入選作品たちには素人の私でも突っ込みどころがたくさんありました。 がんばって、一生懸命に描いている氣はどの作品からもひしひしと伝わってきます。 ただ、その一生懸命さのどこかが空回りしてしまっていました。 まさしく 若さ ですね。 優秀作品4点と大賞1点が並べて展示されていましたが、やはり大賞作品と優秀作品の差は大きく感じました。 優秀作品には、例えば、もう一歩前へ出た構図にして!とか、キラリと光るものがにじんでるよ!とか・・・あと一歩のもの・・・その一歩が大きな一歩なのですが・・・が足りないように感じました。 それは、花鳥風月の日本画を見ているのだけれど、写真を撮る際の気づかいと同じことが言えるのだと思いました。 写真でも、構図を決めたら、そこから更にあと一歩前へ寄れ!と言われます。 そして、あれもこれもにフォーカスしないで、撮りたいもの、伝えたいもの1点にフォーカスしろ、とも言われます。 えてして初心者のうちは、何でもかんでも構図に取り込もうとしてしまいます。 名人ほど、シンプルになります。シンプルだけど、ものすごく胸を打ちます。 公募展を見終わった後、松園・松篁・淳之画伯たちの作品を見ましたが・・・比べものにはならない力の差はあるのは当然でしたが、その若さの中に、これからの伸びしろに期待の拍手を送りたくなる気持ちになりました。 その画伯たちの絵と若手たちの絵を、特に鳥を描いた絵を見比べながら、ひとつ、大きな違いに気づきました。 それは鳥の目です。 画伯たちの鳥の目は、生きた鳥の目をしています。 一点を見つめる力も強い。それでいて、自然の鳥のように、広い視野も持っている。そんな鳥の目が描かれていました。 若手の鳥の目は・・・生命が吹き込まれていませんでした。 死んでいる目ではありません。それ以下・・・元々、生きたことのない目に見えました。 技術的な問題だけではないでしょう。 気迫? それは描き手の生き方の太さのように思いました。 画伯たちの鳥の目は、それはそれは太くしっかりした筆でドンと描いたような目をしています。 現実的には数ミリの黒点だけど、孟宗竹くらいの太い筆を両手に抱えて、画伯自らは天からドンと降り立ち、踏みしめながら、その太い筆を振り下ろしたような目をしていました。 目を見る楽しさ、目の恐ろしさ。  目というものは日本画の世界ではとても大切な、生命そのものなのですね。 そしてもうひとつ、気づいたことがあります。 花鳥風月の日本画では、50代、60代なんて、まだまだ半人前の世界です。 松園・松篁画伯の80代、90代の作品を見て、つくづく思いました。 60代・・・まだまだ30年。これからの30年が最高の円熟期だ!ってね。 これはサラリーマンでも、医者でも、専門職でも、主婦でも・・・誰にだって言えることです。 60代からの30年こそ、人生の円熟期であり、自分が生きた証をこの世とやらに刻み込む本番なのです。 優劣なんてもう気にしなくてよくなります。 ただ、自分を自由に表現して、自分を爆発させることのできる30年です。 これまで朧気だった自分の生きざまがはっきりと形となって見えてくる60代です。 それが花なら、花を愛で、 それが笛なら、音曲を奏で、 それが剣なら、切り開いていけばよいだけです。 60代からの30年は、無我の境地に遊ぶことが許される30年です。 生まれてきた意味も、生かされている意味も、この宇宙とともにある意味も、すべてがその無我の境地の中にあります。 それは神とひとつになることと言えるかもしれません。 それはそれでいい。何だっていいのです。 自分を爆発させることができれば、大宇宙の始まり、ビッグバンを体現することになります。 画伯たちの絵の向こうから、そんな大宇宙の風が吹いてくるのが感じられました。 人生、60代からが本番ですよ。