2013年10月12日土曜日

おはようさん 2013.10.13.

日曜日はいよいよ能楽の謡いデビューです。 所は奈良新公会堂の能舞台。 題目は橋弁慶。 はい、シテの弁慶役を謡わせていただきます。 観世流の観世清和家元のCDを超ヘビーローテーションして耳コピーしたので、大丈夫だとは思いますが、勝負は時の運。 まぁ、能舞台上での一回勝負ですから・・・完璧だけどまだまだあまちゃんな自分に満足して望みます。 勝負は時の運。と言いながら、これはトコトンまで、自分の限界が見えてくるまで努力して、その真意がわかる言葉ですね。 努力したってムダさ。勝負は時の運だから・・・ まぁ適当にがんばっておけば。勝負は時の運だから・・・ こんな使い方はプロでもアマチュアでもない、ただの素人の逃げ口上に過ぎません。 そんな輩たちには、そもそも神さまは運などくれやしません。 病気だってそう。 病気に真剣に向き合っている患者さんたちには運があります。 大きかったり小さかったり、弱かったり強かったはするけど、運を持っています。 ご縁がつながって、神さまに導かれて、私のところまで来たんだなぁと感じます。 そんな患者さんたちを、必要があれば藤本蓮風先生のところに紹介したり、舌癒着症オペや光の前世療法をお薦めしたりしています。 運は運気とも言います。 そう、運も氣なのです。 癌や難病の患者さんに、例えその氣が弱くて心細くても生気の輝きがあれば、蓮風先生は大丈夫と言いながら鍼をされます。 病気を介して自分の限界に向き合って、自分にもまわりのみんなにも感謝と祝福の気持ちでいっぱいになれた患者さんには運気があります。 宝くじに大当たりする運気も欲しいけれど、自分の人生に打ち勝つ運気こそ、魂の解放、すべての無と在と神を超越する力となるような気がします。 話は戻って・・・ 橋弁慶とは、弁慶と牛若丸が五条の橋の上で出会う名場面のお話です。 ♪京の五条の橋の上・・・♪ 私が知っているお話は、999本の刀を奪って、あとひとり と橋の上で待っていた弁慶のところに、牛若丸がやってきて・・・ 多分、皆さんもそうでしょう。映画やTVのシナリオもこれですからね。 能の橋弁慶はちょっと立場が違います。 牛若丸が毎夜、橋の上で小太刀を蝶鳥の如くに振り回しています(夜中の騒音バイクのバカたれどもと同じやな) 弁慶は五条の天神へ願掛けの日参をしていて、その満願の夜。 お供が最近、五条の橋に天魔鬼神も驚くような子供が暴れていて、誰も手に負えないので、今夜の参拝はおやめになったら・・・と忠告します。 すると、弁慶は・・・なるほど、やめとくか・・・いや、俺さまに敵うヤツなどいるはずがない。俺がそやつを退治してくれようと自信満々に、己の鎧姿にナルちゃんになって(ナルシスト)出かけていきます。 牛若丸は母から鞍馬寺へ行けと命じられており、その夜は最後のシャバの夜でした(お母ちゃんには逆らえないマザコンでもあります) 誰か来ないかなぁと橋の上で待ちくたびれていると・・・来た!来た!誰か来た\(^O^)/ 弁慶は牛若丸を見つけましたが、女の格好をしているじゃありませんか・・・ あかん、俺は出家の身や。声をかけるとセクハラやし、スキャンダルになったら、みのもんたに昼間に説教くらっちゃうし・・・と躊躇してます。 当の牛若丸。このおっさん、からかったれぇと弁慶愛用の大長刀を蹴飛ばします。 そしていよいよチャンチャンバラバラ・・・ あとはいつものシナリオ通りの展開です。 弁慶と牛若丸。歴史上、ふたりは確かに出会っています。 その出会いは果たしてどっちのシナリオに近いのか? はたまた全然、違った出会いだったのかも。 現実はひとつ。 でも、それが歴史になってしまうと、もう真相はどうだったのかは分からなくなってしまいます。 福1の放射能汚染も、100年後、1000年後になって、どのように伝えられているのでしょうか。 未来の人たちが私たちのことをどう思っているのでしょうか。 橋弁慶の練習をしながら、ふっととてもやるせない気持ちになることがあるのです。