2015年8月20日木曜日
おはようさん 2015.8.20.
今日は蓮風先生の鍼治療の日です。
少し時間を作って、私の隠れ家 松柏美術館に寄ってきました。
今は・・・
「本画・下絵・素描 上村松園・松篁・淳之「創造のひみつ」展
~日本画の材料と技法~
一枚の本画が完成するまでに、非常にたくさんの時間が費やされていることが、残された素描や下絵などから知ることが出来ます。見過ごされていくありふれた現実の中から、美しく芸術化された世界が紡ぎ出されるひみつをそっとのぞいてみましょう。
7月14日(火)~9月23日(水・祝)
松園さんの「花がたみ」と「楊貴妃」は、もう100年前の作品になります。
「花がたみ」のモデルの芸妓さんのスケッチから始まって、いくつもポーズの素描画から構想の変遷がわかります。
下絵からは、一枚の落ち葉、黒髪の一房を数センチ動かして書き直した痕に、ゾッとしてしまいました。
日本画は西洋油絵と違って、本画は描き直しができません。
だから下絵を木炭と墨で描いては、上から紙を貼って書き直し・・・の繰り返しです。
そして本画と同じサイズの下絵を描いて・・・ここでも描き直しの度に紙を貼っていきます。
貼られた和紙の下に、元の画線が透けて見えて・・・画家の血のにじむような苦悩が見て取れます。
才能とは、イメージする力だけではありません。
イメージを完成する努力と根気と信念が必須です。
絵画も音楽も詩歌も、天から降ってくるものです。
天から授かったイメージを、命がけでこの世のモノに仕上げていく。
出来なければ、自ら命を絶つ・・・人は壮絶な覚悟と共に天才を授かるのです。
本も同じです。
松園さん&松篁さんの壮絶な創造過程を見ながら、軍師中谷彰宏先生のことを思いました。
千冊も、あれだけのペースで書いているのを見ると、本を書くことがいとも簡単そうに思ってる人たちの声を耳にすることがあります。
中谷先生ご自身も、「どんどん書きたいことが湧き出てくる」と平気そうな口調でサラリと受け流すものだから、庶民はそう思って納得してしまうのでしょう。
なぜか?
それは、庶民は努力したことがないから、です。
血のにじむような努力も、天に誓った命がけも、想像すらできないからです。
「人は誰でも作家になれる」by 中谷彰宏 の中で、自分の好きな作家の生原稿、出来ればデビュー作の生原稿を見に行こう! とあります。
生原稿には、作家の苦悩が怨念のように宿っています。
累々とした自らの屍を乗り越えて進んでいった跡が血生臭く刻まれています。
(私の書斎の壁には、中島敦と川端康成の生原稿のコピーが掛かっています)
中谷先生も、書いては削り、また削り、書き直し、更に削り・・・を延々と繰り返しながら一冊の本を書き上げています。
それは千冊になっても、同じです。
書けば書くほど、天からの授かりモノ、天の声を書き写しているだけ、という謙虚な気持ちと絶対的な使命感が強くなっていきます。
この世になにかを成し遂げるためには、庶民ではダメです。
一発屋でバカ売れして終わり・・・なら庶民のままでOKです。
でも、100年後にも人を感銘させるモノを残すには、貴族を超えて神職にならなければなりません。
貴族・武家になるだけでもこんなに大変なのに、更に上には神職という別世界があるんだ・・・とんでもないことに気づいてしまったのです。
花筐(はながたみ)
春の越前国・味真野。皇位を継ぐため都へ向かった大迹皇子は使者を最愛の女性・照日の前の元に遣わす。使者は照日の前に皇子からの文と愛用の花筐(花籠)を届け、悲嘆にくれた照日の前はそれらを抱いて故郷へ帰っていく。
秋の大和国・玉穂。帝(皇位を継いだ大迹皇子)は臣下とともに紅葉狩りに向かうが、そこへ皇子を慕うあまり都へとやってきた照日の前と遭遇する。帝の行列を汚す狂女として官人に花筐を打ち落とされた照日の前は花筐の由来を語り、漢の武帝の后・李夫人の曲舞を舞う。花筐を見た帝はそれがかつて自ら与えたもので狂女が照日の前であると気づき、再び照日の前を召し出して都へと帰っていく。