2008年5月22日木曜日

星風通信 200522C

あれこれと批判する人が尊いわけではない。
実力者がなぜ失敗したのかとか、実行者はもっとうまくやるべきだったなどと、指摘する者がえらいわけではない。
賞賛されるべきは、その分野で実際に行動した者である。

顔をほこりと汗で汚しながら働いたもの。
雄々しく戦った者。
まちがいを犯した者。
そして、何回も何回も力及ばなかった者。
なぜなら過ちや欠点のない努力など、ないからだ。

実際に行動しようとした人。
熱中することがどういうことか知っている人。
献身することを知っている人。
価値のあることのためにつくす人。
そして最悪の場合、失敗するとしても、最大の勇気を持って立ち向かって失敗する人。

大きなことに取り組み、輝かしい勝利を勝ち取ろうとすることは、たとえ失敗して様々な苦労を味わおうとも、気魄のない連中と肩を並べるよりはずっとすばらしいことだ。
彼らは勝利も敗北もわからないままぬるま湯の中で生きているので、喜びも苦しみも知らないのである。

   テオドール・ルーズベルト

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精一杯やっても結果がついてこないことが人生にはよくあります。
未知の分野にチャレンジすれば、ほとんどが失敗してしまいます。
すべてのことには意味があります。
内なる声に導かれるまま、自分を信じて、勇気を出して、世のため、人のために取り組んだことの成否は、ずっと後にならないとわかりません(実は、かならず何かにつながって、未来の成功の礎になっているので、「失敗」はないのです)。
スピリチュアルをひとことで言えば、「チャレンジ」です。
チャレンジを忘れた人たちからは、失敗することがわかっているのにアホなやつや、と笑いものにされ、チャレンジが実を結びはじめると、嫉妬を込めて中傷されたり足をひっぱられたりします。
それでも、内なる声に耳を傾け、自分を信じて、前に進むのがスピリチュアルを生きることです。
前世がわかった、光の存在とつながった、至高の体験をした・・・そして、今生の目的がわかった、これからの使命がわかった、天職がわかった、ソウルメイトがわかった、としても、そこから実生活の中で実践できることから始めないと、TVのスピリチュアルなレベルで終わってしまいます。
内なる声とつながりながら、勇気を出して、自分を信じて(見守ってくれている神さまも信じて)、(たいていは未知なる分野への)新しい一歩を踏み出せば、心が素直になり、感性が精妙になり、シンクロがどんどん起こり始めます。これがアメリカ、インド、チベット、日本、ペルーなど世界中のマスターや導師たちがさまざまな例え話で説いているスピリチュアルのエッセンスです。
チャレンジのないところにスピリチュアルはありません。
チャレンジしている人は、(本人がまったく気づいていなくても)スピリチュアルなマスターへの修行者です。
チャレンジしている人は、だれもが神さまの化身なのですね。