2017年12月12日火曜日

ごきげんさん 2017.12.12.

「明るいチベット医学」大工原彌太郎 は久しぶりに目から鱗が!の名著です。 チベット医学ってこんなものかな、の思い込みが見事に打ち砕かれました。 インドとチベットの妊娠ー出産ー乳児期の考え方には、とても驚かされると共に、自然医学的に深く納得するものがありました。 そんな名著の最後に 「死に方」を伝えていくーインド人の場合 があります。 どんな死に方をしたい? と尋ねられて、はっきりと答えられる人はいないでしょう。 (私もそうでしたから) こんな死に方がいいな、と羨ましく心に刻まれた死に方をご紹介しましょう。  インドでも、寝たきり老人というのはあります。シモの始末も自分でできないという年寄りはいます。でも彼らはそう不幸に見えません。  むしろ彼らは、自分はこんなに長く生きられた、みんなが早く死んでいく世の中でこんなに歯が抜けるまで生きられてありがたい、といいます。シモの始末をしてもらうこともべつに恥ずかしがるわけではない。家族の者も嫌悪したりということはありません。年寄りを敬う習慣がありますし、これはだれにでも起きる生命現象だと、本人も周囲も考えています。  処理の仕方もいいのです。インドの多くの農村部では死が近くなってくると、たいてい外へベッドを出します。だれでも家の中で死にたくない、お世話になった太陽や空の下で死にたいからです。ベッドの真ん中に穴が開いている網ベッドです。十九世紀末にヨーロッパでコレラベッドとして使われていたものと同じで、下にバケツを置き、タレ流しをする方式になっていますから、そんなに面倒ではないのです。唾をペッペッと吐いても、下は地面だから汚くないし、匂いもない。  ベッドはふつう大きな樹の下に置かれます。死を外で迎えられるというのは、病人にとっても幸福です。目を上げれば花が咲いているのが見え、鳥の声が聞こえます。朝は空が白んで陽が昇るにつれ自分のからだも目覚めてくるし、鳥が飛んできたり、なんだかんだと動物の鳴き声がしたり、人の話し声が聞こえくる・・・  私も、死ぬためではないのですが、何年か巡礼中に外で寝起きしていたのでわかるのですが、ほんとうにこれほどのしあわせはありません。木や花や草が喜んだり、深い息をついたりしながら生きているのがわかるし、自分もその自然の一部なんだと感じ、一体になれる。その中で神よいうか造物主というか、この世をつくった者に対する畏敬の念が湧いてきます。そこに帰れるということで、外に寝起きしているといつ死んでもいいなぁという気持ちが起こります。  もっと得がたいのは、村人とのコミュニケーションです。これから死の旅路に向かうわけですが、こういう死に方ですとだいたい一ヶ月くらいはかかります。食事などは家族や村人が運んできますが、そのうちに本人が「もう食べないから」といって、だんだん間隔があき、ゆっくりと死に向かっていきます。その間にみんなが話に来るのです。  夜が明けると、大人も子供もやってきて「おじさん、ゆうべは何を考えた?」などと聞いたりします。病人も、こういうことを考えたとか、いまはこう思っているとか話し始めます。本人も死に向かっていることを知っているし、まわりの人も知っている。普通では得られない選りすぐった時間です。  死んでいく人はそういう時間をもつことで、死への準備ができてきます。死路を行く。眠りたくなったら寝かせてあげる。そして起きたらまた何を考えたか尋ねる。死にゆく人は考えながら答える。そういうことで、死とはどういうものかを学び、伝達していくのです。あんまりその人のいった言葉がすばらしかったりすると書きとめておいて、あとで曲をつけて歌ったりすることもあります。私も、村に伝えられたそういった歌をいくつも聴きました。  やはりそういう死の旅に向かっている人たちというのは、とても純粋である、また非常に貴重な経験哲学をはっきりさせてくれることで、私はこの死に方は非常に貴重だと思うのです。それはまた生きることの意味を明らかにすることでもありますし・・・  ときには痛みがひどくて苦しんだりすることもあります。そういうとこは、そばでお祈りの言葉を唱えたり、なぐさめの歌を歌ってあげたりします。そういうことで死にゆく人はどんなにか心がなごむかと思うのです。  死が近づいて、意識が薄れはじめると、音頭をとる者がいて「ほれ、歌えや」とまわりの者に合図をします。死に向かうことをたたえる歌です。本人のほうは、からだはもう動かないし、聴診器を当てれば心臓も肺もかすかに動く程度ですが、薄れていく意識の中では、現実とあの世が混然となって、普通では得られない状態にいるのではないでしょうか。  そういう死に方を見ていると、まわりを囲った家の中で、それも病室などまったく自分のなじみのない部屋の中で、自分の知らないしくみによってことが運ばれ、操られて死んでいくのではいかにももったいないと思うのです。何本もの管や線で繋がれて意識のないままいつの間にか生命維持装置が止まってしまうような死は、あまりに淋しいし、それこそ生命の尊厳を無視した、個人の主体性に関係のない死に方で、これはもったいなくもあり、生命への冒涜ではないかと思います。  インドの死は、個人にとっても満足のいくものであり、そういう死に方をまわりに見せる、また聞く、語るということで、死が伝達され、みんなのものになっていく。  死を見つめる経験を積むことによって、やがて自分にもやってくる死をやみくもに恐れなくなる。死は個人だけのものでなく、社会的な有益な死にもなるのです。