2011年12月21日水曜日

おはようさん 2011.12.21.

お正月用のちょっと長めのお薬処方箋を書く週になりました。
1月6日からだから、え〜と・・・ 
指折り数えてると、何だかクリスマス&お年玉が待ち遠しい子供の頃を懐かしく思い出したりして苦笑い。
今年亡くなった人たちをTVで観ていて、長門裕之さんやスーちゃんの悲報に涙したのは、もうずっとずっと昔のような気がしてたけど、今年だったのですね。
この世を楽しく、うれしく、面白くしてくれていた人たちが、たくさん向こうの世界へ旅立ってしまったけど、なぜかすぐ近くにいるようにも感じます。
遠い世界、忘れてしまう世界ではなく、私のまわりの空気の中に向こうの世界があって、息を吸う度に私の中に入ってきて、こころの奥の深いところで、私の意識体さんとお話してるように・・感じます。
光の世界になると、肉体を持っているかどうかのちっちゃな違いだけになって、「死んだ人」ともリアルに通じあえます。
生は「いらっしゃい」 死は「またね」 
生死にまとわりつく喜怒哀楽の霧が晴れわたって、「今」を楽しむように、生老病死をも楽しめるようになります。
「今」を生きると、朝から夜に向かう時間の流れが、そう、ピッチャーの投げたボールが止まって見えるように、とてもゆっくりになると共に「楽しむ」のベクトルが時間の流れをビョ〜ンと別次元に引き延ばしてくれます。風船ガムみたいかな?
「楽しむ」は、悦び、美、うれしい、ありがとう、そして、大好き!
そんな光の世界が、まるで梅の花のように、もう花開き始めています。
ちっぽけな一輪だけだけど、凛として美しく香しく花開き始めています。
だから、大丈夫。明日も来年も、大丈夫ですよ。


死の不安と恐怖。
生まれたら必ず通るところです。
いつか? はわからないけど、いつかのある日、通り抜けるところです。
不安神経症や鬱病や心身症の人たちのこころの中をどんどん分け入っていくと、病気の源流はこの死の不安と恐怖に辿り着きます。

なぜ死が心配なの? 怖いのかしら?

きっと死んだらどうなるか? がわからないからでしょう。

動物たちと同じように日々、生きるか死ぬか、だった大昔には「死」は誰かの糧となること、動かなくなること、消えてなくなることでした。動物たちよりは深く長く死を悼んだでしょうが、今日を生きなければならない身の上では、自分の「死」はまるで影のように身近なものだから、あるがまま受け入れていました。
やがて狩猟生活や農耕生活が始まると、自分の「死」の影が少し薄らいできました。とりあえず明日の糧はあるから、助けてくれる人や守ってくれる人がいるから、いつ死んでもおかしくない日々から、きっと明日も生きていられる日々へと進化しました。
すると、死への不安と恐怖が芽生え始めます。
死者が亡者となって蘇らないように、自分を死へ連れて行かないように・・・祟りや死に神となって死の不安と恐怖が具現化していきました。
そして、昔の人たちは宗教を創り上げました。
平安時代には極楽往生。戦国時代には南無阿弥陀仏。
死んだからこうなる、こんな世界へ行ける、と信じ込めていたから、死の不安と恐怖を乗り越えることができました。
明治以降、近代化&科学化は、あまりに無邪気とも言える信仰心と畏敬の念に津波のように繰り返し襲いかかり、100年後にはこころを荒野にしてしまいました。
我欲とエゴに夢中になれた時代はそれでよかったのですが、我欲とエゴの果てが垣間見れてくると、荒涼たるこころの叫び声に気づくようになりました。
「死」への不安と恐怖が、「生」への落胆と苦しみがこころを飲み込みます。
老いも若きも自殺へと走る世の中を何が救えるのでしょうか?

光の哲学で、死んだらどうなるのか? を明らかにしていきましょう。
死んだ。肉体を離れて、意識体がフワッと浮かんでいます。
下を向けば、自分の身体が見えます。
身体のどこから抜け出すか? はいろいろで、特に法則はないようです。
(癌のあった場所からとか、一番出血してた場所からとか、一番元気だった場所からとか・・・あんまり関係ないようです)
病気だった人は、意識体が身体の上に浮かんでいることに気づくと、死んだなぁ、と気づきます。
突然死や事故の人は、なんだ これは?! 何が起こってるんだ?! と、ちょっとパニックになります。
アメリカ911の後、1週間くらいは、光の前世療法をしてると、この亜空間というか時空間が非常に不安定でした。たくさんの人たちの意識体がパニックになって右往左往していたのでしょう。でも大丈夫。ちゃんとみんな還るべきところへと昇っていって、落ち着きましたから。
死ぬ時に、恨みや憎しみ、怒りをたくさん持っていた人は、意識体になっても、ドロドロした感情エネルギーを捨てきれずに、ちょっと重い感じで浮かんでいます。
でも大丈夫。そんなドロドロした感情エネルギーは次第に意識体から大地へとしたたり落ちて、母なる星 地球が浄化してくれます。
さて、死んだことに気づいた意識体は、上に光を見ます。天空に大きな眩しい光が輝いてる感じですね。
すると自然に天空の光に向かって昇っていきます。故郷へ走り出すように、慈愛に引き寄せられるように、スッ〜と昇っていきます。
死んだことに気づけない意識体には、光の方から近づいてきてくれます。どんなに鈍感?な意識体でも、凹んでいようが落ち込んでいようが自責の念に押しつぶされていようが、どんな意識体でも光に気づき、光に導かれて天空へと昇っていきます。
気づくまでの時間が・・・心配ありません。
肉体を離れて意識体で浮かんでしまうと、時空間の縛りから解放されます。
この世では数日、数週間、数ヶ月・・・でも、意識体になってしまうと、すべてが「今」です。
こっちから見れば長時間の「ずっと」だけど、あっちに行けば「さっき」です。
地獄? ありません。
ただ、死ぬ時に「地獄」を信じ切っていれば、想像通りの地獄の中に意識体は浮かんでいます。
極楽往生を信じ切っていた昔の人たちは、想像した通りの極楽の中に浮かび上がったのです。
死んだら神様、仏様、観音様が迎えに来てくれると信じ切っていれば、光はその姿となって出迎えてくれます。
さて、現代人は・・・?
信仰もあやふや。死後の世界もあやふや。
それで意識体となって浮かび上がることになります。う〜ん、困ったなぁ。。。
死は敗北だ。死は恐怖だ。すべてはなくなる。
身体から抜け出た意識体は、はてさて・・・どう思うのかしら?
今、みなさんに必要なことは、
1)身体が死んだら意識体が身体から浮かび上がること。
2)上を見ると、誰でもどんな人生を送ってきても必ず光が見えること。
3)その光に向かって昇っていけばいいだけのこと。
残してきたあの人とまた会えるか?  そう信じれば、必ず会えます。
先に逝ったあの人に会えるか? 迎えてくれるか? そう信じれば、必ず会えます。
死んだら天国へ行けるか?  そう信じれば、必ず行けます。
死んで意識体となって浮かび上がった時、信じていた光景がそのまま創り出されます。
だから、死を恐れないで、死後の世界を上手に創造しましょう。
大いなるひとつの光の中へ戻ってしまうと、意識体も光そのものに溶けてしまいます。
あなたが神様になるのではなく、神様とひとつになる感覚です。
光の中では、もはや自分という意識はなくなります。
だから、死後から光の中へ溶け込んでいくまでの間、どんな創造でも叶うひとときを思いっきり楽しみましょう。
一生に一度のご褒美なのだから。
肉体を持って生まれてこないと、味わえないパラダイスなのだから。
あなたはどんな死後の世界を創造しますか?