2011年9月8日木曜日

おはようさん 2011.9.8.

今朝のお散歩通勤で、
蝉がいっぴき鳴いていました。
今年最後の蝉かな。
見送り花火のようで、うれしくもあり、せつなくもあり。
幼稚園では小さな小さな朝顔がいっぱい咲いていました。
朝日をおもいっきり吸い込んで、どの顔もキラキラ輝いていて、
新学期の子供たちの笑顔とシンクロしてるよって。
水泳大会、運動会、遠足、文化祭・・・
子供ながらにモチベーションがどんどん成熟していくのが、
ちょっと大人になったみたいで、うれしかったかな。
ゆく夏をこころで味わうのも、朝の楽しみですね。

9月のGワークは「勇気のワーク」
勇気と言えば、ホメロスの世界が浮かんできます。
誰もが勇者であったトロイア戦争の時代。
神々に見守られ、勝ち負けを超越して、祝福されていた勇者たち。
その勇気は、ずっとこの世界に息づいていました。
日本では武士道だけど、
武士道が戦士たちのこころから消えてしまったのはいつかしら?
朝、パナソニック本社前の道を我が物顔に信号無視する、幅いっぱいに広がって歩く企業戦士軍団を見ていると、とても悲しくなります。
NHK「坂の上の雲」で、清国海軍水兵たちの規律が緩んでいるのを見た日本人たちには、まだ武士道が宿っていました。
これなら勝てる、とは思っただろうけど、こんな相手と戦うのか・・と悲しかったのではないかな? とも思います。
日露戦争までは武士道が生きていたけれど、その後はどんどん廃れていったように感じています。
西洋列強への畏れが我欲の醸し出す自惚れに飲み込まれていって、いつしか生き方を忘れてしまったようです。
私たち50代の小中学校時代、道徳の授業=自習 or お遊び でした。
戦後、何をこころのよりどころにしたらいいのか? 普遍的に何が善であり何が悪なのか? が国家として、人間形成の教育として何ひとつ決まっていなかった時代です。
そんな世代が学校の先生となり、政治家となり、起業家となり、親となって・・・今の日本人を作ってしまいました。
西洋(アメリカ&ヨーロッパ)ではどうでしょうか?
やはり騎士道は消えてしまったように感じます。
アメリカが世界の中心の頃は、畏れる相手は神さまだけでした。
今は、中国、アジア、ロシア、アフリカが怖い・・・
畏れは我欲とエゴの増幅競争に飲み込まれてしまいました。
武士道、騎士道など無用。勝ち負けだけがすべての世界になりました。
目の前の勝負だけしか見えない戦士たち。
まわりへも足下へもこころへも目を向けない戦士たち。
そうでなければ、生き残れない戦士たち。
・・・勝ち残れば、勇者でしょうか? 違います。
アキレウスもパトロクロスもヘクトールも、死ぬことがわかっていても出て行った。
それが善であり美であることが命より大切だったから。
守るべきものも生き方も、我欲やエゴからは生まれません。
勇者は畏れを抱いています。
畏れが勇気を輝かせるのです。
天地自然への畏れ。神々への畏れ。
愛せること、許せること、認められること、信じれることへの畏れ。
畏れは感性の目を開きます。
Appleの製品が世界中の人たちに受け入れられているのは、人々の眠った感性をくすぐるように刺激するからでしょう。
感性の時代、光の時代はもうすぐです。
だから、これからはもっともっと、畏れる気持ちを大切にしていきたいものです。